小出の話をした。43歳の死は若い。しかし、彼はまだマシな方だ。
二十歳で夭折した関根正二に比べたら。
明治32年生まれ。代表作「信仰の悲しみ」
その死自体が気の毒なのではなくて、私が彼に同情するのは、彼の「焦り」にある。
関根は貧困の中で、画材を買えず、友達に絵の具や古いキャンバスをわけてもらっていた。
あのゴッホでさえ、弟テオに頼んで、絵の具だけは最高級のものを使っていたのに。
関根には大阪に恋人がいた。名は田口真咲。
女性がもし、大金持ちの有閑マダムとかだったなら…
しかし、真咲は母子家庭に育った、これまた貧しい女性だった。
もし、自分の描いた絵がバンバン売れて、彼女に楽させてやれたら
そうなりたい
その夢を、若い者がよく抱く甘い幻想だと言えるだろうか?
もちろん、絵描きとしてやっていくのは、そんなに甘くはない。
画家を何人も見ているから、彼らが自分の表現とニーズの板挟みや焦りの中で
時には、売れっ子となった画家に嫉妬して
「ああいうのはくだらない、中身なんかまるで無いね」
と言って罵ったり、その反面、自信すら揺らいで「やめた方が楽」
と言ってたりするのも、よく知っている。
かくいう自分は、すでにどうしたかったのかすらわからないでいる。
漫画家になりたかった! これからも続けたい! というだけの自信とプライドはあるのかというと
そんなものがあったなら、一生独身でバリバリやっていそうなものだ、とも思う。
結局、とりあえずやれる事にしがみついて、逃げているのだろうなとも思う。
仕事があれば(あればマシな方だ)「仕事だから」と割り切り、主体性よりは注文を重視したく
更に言えば、先の事を考えたら不安で仕方ない。
それはおそらく、仕事を続けられるかというよりも
自分が自分であると、ここにいると、認めてもらえるのかどうか。
アウトサイドの者をクズ扱いする精神医学博士や、一部の社会学者がマスコミを通じて言うように
たいした値打ちもない、そんな存在なのではないだろうかと思う事
それに対しての、生きる誇に対しての不安と、焦りなのだ。
自分が生まれて生きた事なんか別にどうでもいい事で、塵芥ほどの価値もないのなら
もはや最初から生まれなければいい
ーーこの問題を感じているのは、別に私だけではないと思う。
そう思わせてしまう何かが、今の社会を覆う不安と、焦りと、鬱に違いない。
一体誰が、本当に、最初から、
この世に生きていて何をしてもよいと許されているのか?
答は
誰も許されてはおらず、また、全ての者が許されている
のではないだろうか。
これは「原罪」への問いだ。
おそらくは強い意志による行動しか、それを示せるものはないだろう。

「信仰の悲しみ」と題されたこの絵から、メッセージを読み取るのはやめようと思うが。
この絵はリサイクルの古キャンバスに描かれた。
女性が1人だけ朱色の服なのは
朱色の絵の具は高いので、これだけしか使えなかったからだという。
うつむいたその女性は真咲なのだろうか?
信仰とは、つまりこのようなものかもしれない。
救われるために信じるのではなく、ただただ疑ってはそぞろ歩きするものではないだろうか。
信じれば救われる、信じればご利益がある
それはどこか私には「努力すれば報われる」「努力し続ければ必ずご利益がある」
まるで近代思想という1つの宗教の戯れ言にすら聞こえるというのは
シニカルで言い過ぎだろうか。
夭折してしまったので、彼が長生きしていた場合の結果は語れない。
語れないが、もし彼がいたら、言いたいのだ。
その歩いた道だけは、まず確かではないのかと。
たとえ信仰がうつむいたそぞろ歩きであったとしても。
なにしろこの絵は、まるで原爆投下後に描かれた地獄絵図のように、
一度見たら忘れられないインパクトを持つ。
大原美術館所蔵。
二十歳で夭折した関根正二に比べたら。
明治32年生まれ。代表作「信仰の悲しみ」
その死自体が気の毒なのではなくて、私が彼に同情するのは、彼の「焦り」にある。
関根は貧困の中で、画材を買えず、友達に絵の具や古いキャンバスをわけてもらっていた。
あのゴッホでさえ、弟テオに頼んで、絵の具だけは最高級のものを使っていたのに。
関根には大阪に恋人がいた。名は田口真咲。
女性がもし、大金持ちの有閑マダムとかだったなら…
しかし、真咲は母子家庭に育った、これまた貧しい女性だった。
もし、自分の描いた絵がバンバン売れて、彼女に楽させてやれたら
そうなりたい
その夢を、若い者がよく抱く甘い幻想だと言えるだろうか?
もちろん、絵描きとしてやっていくのは、そんなに甘くはない。
画家を何人も見ているから、彼らが自分の表現とニーズの板挟みや焦りの中で
時には、売れっ子となった画家に嫉妬して
「ああいうのはくだらない、中身なんかまるで無いね」
と言って罵ったり、その反面、自信すら揺らいで「やめた方が楽」
と言ってたりするのも、よく知っている。
かくいう自分は、すでにどうしたかったのかすらわからないでいる。
漫画家になりたかった! これからも続けたい! というだけの自信とプライドはあるのかというと
そんなものがあったなら、一生独身でバリバリやっていそうなものだ、とも思う。
結局、とりあえずやれる事にしがみついて、逃げているのだろうなとも思う。
仕事があれば(あればマシな方だ)「仕事だから」と割り切り、主体性よりは注文を重視したく
更に言えば、先の事を考えたら不安で仕方ない。
それはおそらく、仕事を続けられるかというよりも
自分が自分であると、ここにいると、認めてもらえるのかどうか。
アウトサイドの者をクズ扱いする精神医学博士や、一部の社会学者がマスコミを通じて言うように
たいした値打ちもない、そんな存在なのではないだろうかと思う事
それに対しての、生きる誇に対しての不安と、焦りなのだ。
自分が生まれて生きた事なんか別にどうでもいい事で、塵芥ほどの価値もないのなら
もはや最初から生まれなければいい
ーーこの問題を感じているのは、別に私だけではないと思う。
そう思わせてしまう何かが、今の社会を覆う不安と、焦りと、鬱に違いない。
一体誰が、本当に、最初から、
この世に生きていて何をしてもよいと許されているのか?
答は
誰も許されてはおらず、また、全ての者が許されている
のではないだろうか。
これは「原罪」への問いだ。
おそらくは強い意志による行動しか、それを示せるものはないだろう。

「信仰の悲しみ」と題されたこの絵から、メッセージを読み取るのはやめようと思うが。
この絵はリサイクルの古キャンバスに描かれた。
女性が1人だけ朱色の服なのは
朱色の絵の具は高いので、これだけしか使えなかったからだという。
うつむいたその女性は真咲なのだろうか?
信仰とは、つまりこのようなものかもしれない。
救われるために信じるのではなく、ただただ疑ってはそぞろ歩きするものではないだろうか。
信じれば救われる、信じればご利益がある
それはどこか私には「努力すれば報われる」「努力し続ければ必ずご利益がある」
まるで近代思想という1つの宗教の戯れ言にすら聞こえるというのは
シニカルで言い過ぎだろうか。
夭折してしまったので、彼が長生きしていた場合の結果は語れない。
語れないが、もし彼がいたら、言いたいのだ。
その歩いた道だけは、まず確かではないのかと。
たとえ信仰がうつむいたそぞろ歩きであったとしても。
なにしろこの絵は、まるで原爆投下後に描かれた地獄絵図のように、
一度見たら忘れられないインパクトを持つ。
大原美術館所蔵。