ピカソにしても、ポロックにしても
とにかく抽象芸術について人の話をきくと「何を描いているのかわからない」「下手にみえる」
と、ともかく「何の絵か?」が先にくるようだ。
日本人は絵に対して、特殊な見方をする。
いや、特殊な見方しかできないといっていい。
つまり、日本人にとってはいつまでたっても「絵」とはイラストレーションであり、
意味が通じなければ、象徴的なデザイン、つまりイコンなのだ。
逆に、日本人はアレゴリー(寓意画)を読ませると非常に得意で、
これは何について描いていて、どんな謎があるかを雄弁に語ろうとする。
おそらく、「ダヴィンチ・コード」あたりは、「まさに絵とはこうあるべき」と教えてしまったのではないだろうか。
日本には、「絵巻」の伝統がある。
また、障壁画、とまではいかずとも、襖に描かれた絵を見て育った人はいるはずで、
別にわざわざ「美術館」を作って「研究対象」にするようなものではなかった。
ウィリアム・モリスが、生活の中にアートをうんぬんと言うまでもなく、
ごく自然に生活の中に取り入れられ、安価で身近に楽しんでいたのだ。
抽象画はそもそも、何故あんなふうにわけがわからなくなってしまったのか?
簡単に言えば、「アカデミズム」へのアンチ。
つまり、この絵はこう描いているからありたがたい、というような
描かれている対象によって褒められるかそうでないかが決まったから、というのもある。
文学のように意味を取ればすぐ、宗教や政治には利用されただろう。
そういうものとは別な所で、ただ純粋に絵画でありたかったのかもしれない。
私には、グリーンハーグという抽象美術の批評家は、やたらそこを気にしているような気がする。
戦争という時代があったからかもしれないが。
ナチスのハーケン・クロイツ、あるいは宗教画も。
民衆は何もわからない。ただ、わかりやすいものに流れる。
そこにある洗脳と、画家の魂は別物だと。自由な道を探した所以に思える。
大衆にとってわかりやすいものが権力を持つ今日、
わかりにくいものは売れない、格下であるという、別なヒエラルキーを持ちつつある事に苦笑する。
抽象に「見る方法」「解読方法」は無い。
あるとすれば「感じる」方法だろう。
色から、筆致から、ありとあらゆるその存在の全てから
激しくて何かわからないなら、そのまま激しさを感じればいい。
もし、目の前にあるのが、幾何学的抽象だったら
それから何かを連想するくらいはいいだろう。
コンテンポラリーに関しては、少しの哲学思想を持ってみた方が面白いと思う。
常に、今の世の中に対して疑問を持つ姿勢があれば、難解な本を読まずともわかるはず。
前衛画家ばかりの結婚式で、司会が「私のようなものには無知でわかりかねます」と言った時
失笑があちこちでおこった。
多分、全員が「絵はアタマでわかろうとするものではないから」と知っていたのだと思うけど
感じたものが全て伝わるかというと
シュールレアリズムか象徴派まで、
それ以降は冷たかろうが熱かろうがわけわからん! というのは正直そうかもしれない。
ただ
カンディンスキー、彼の絵を見た時だけは
「コイツ、できる」
と思ってしまった。
もちろんそれも「感覚」
もし、抽象絵画がどうしてもわからないし、わかりたい場合は
まず象徴派の詩人の詩あたりから、「感覚」をダイレクトに受け取ったり
ダイレクトに想像力を刺激する方法を知ったりするのは、1つの方法かもしれない。
物を認知する行動に慣れきって、感情を揺さぶられる事を忘れていたら
永遠にわからないかもしれない。
物ではない、とわかるにはまず、ネットの画像では絶対に無理。
抽象だけはぜひ本物で。
とにかく抽象芸術について人の話をきくと「何を描いているのかわからない」「下手にみえる」
と、ともかく「何の絵か?」が先にくるようだ。
日本人は絵に対して、特殊な見方をする。
いや、特殊な見方しかできないといっていい。
つまり、日本人にとってはいつまでたっても「絵」とはイラストレーションであり、
意味が通じなければ、象徴的なデザイン、つまりイコンなのだ。
逆に、日本人はアレゴリー(寓意画)を読ませると非常に得意で、
これは何について描いていて、どんな謎があるかを雄弁に語ろうとする。
おそらく、「ダヴィンチ・コード」あたりは、「まさに絵とはこうあるべき」と教えてしまったのではないだろうか。
日本には、「絵巻」の伝統がある。
また、障壁画、とまではいかずとも、襖に描かれた絵を見て育った人はいるはずで、
別にわざわざ「美術館」を作って「研究対象」にするようなものではなかった。
ウィリアム・モリスが、生活の中にアートをうんぬんと言うまでもなく、
ごく自然に生活の中に取り入れられ、安価で身近に楽しんでいたのだ。
抽象画はそもそも、何故あんなふうにわけがわからなくなってしまったのか?
簡単に言えば、「アカデミズム」へのアンチ。
つまり、この絵はこう描いているからありたがたい、というような
描かれている対象によって褒められるかそうでないかが決まったから、というのもある。
文学のように意味を取ればすぐ、宗教や政治には利用されただろう。
そういうものとは別な所で、ただ純粋に絵画でありたかったのかもしれない。
私には、グリーンハーグという抽象美術の批評家は、やたらそこを気にしているような気がする。
戦争という時代があったからかもしれないが。
ナチスのハーケン・クロイツ、あるいは宗教画も。
民衆は何もわからない。ただ、わかりやすいものに流れる。
そこにある洗脳と、画家の魂は別物だと。自由な道を探した所以に思える。
大衆にとってわかりやすいものが権力を持つ今日、
わかりにくいものは売れない、格下であるという、別なヒエラルキーを持ちつつある事に苦笑する。
抽象に「見る方法」「解読方法」は無い。
あるとすれば「感じる」方法だろう。
色から、筆致から、ありとあらゆるその存在の全てから
激しくて何かわからないなら、そのまま激しさを感じればいい。
もし、目の前にあるのが、幾何学的抽象だったら
それから何かを連想するくらいはいいだろう。
コンテンポラリーに関しては、少しの哲学思想を持ってみた方が面白いと思う。
常に、今の世の中に対して疑問を持つ姿勢があれば、難解な本を読まずともわかるはず。
前衛画家ばかりの結婚式で、司会が「私のようなものには無知でわかりかねます」と言った時
失笑があちこちでおこった。
多分、全員が「絵はアタマでわかろうとするものではないから」と知っていたのだと思うけど
感じたものが全て伝わるかというと
シュールレアリズムか象徴派まで、
それ以降は冷たかろうが熱かろうがわけわからん! というのは正直そうかもしれない。
ただ
カンディンスキー、彼の絵を見た時だけは
「コイツ、できる」
と思ってしまった。
もちろんそれも「感覚」
もし、抽象絵画がどうしてもわからないし、わかりたい場合は
まず象徴派の詩人の詩あたりから、「感覚」をダイレクトに受け取ったり
ダイレクトに想像力を刺激する方法を知ったりするのは、1つの方法かもしれない。
物を認知する行動に慣れきって、感情を揺さぶられる事を忘れていたら
永遠にわからないかもしれない。
物ではない、とわかるにはまず、ネットの画像では絶対に無理。
抽象だけはぜひ本物で。