BSでル・コルビュジェの特番をやっていたので観た。
私はコンクリートの剥き出し建築というのが、基本的にあまり好きではない。
大学がまさにそのコルビュジェ風打ちっぱなしで、とても冷たく感じた。
田舎育ちの私が目にしたコンクリート建築は「精神病院か墓場」のように見えた。

そのカンは、あまり間違ったものでもなかったのかもしれない。
と、ブルーノ・タウトの建築論を読んで思った。
日本びいき。ゴシックの大聖堂は構造主義だと見抜く。
タウト氏は戦前に亡くなっているが、書物の中で日本人の軍服というのは「不釣り合い」と言っている。
建築とは「釣り合い」だと繰り返し述べる。

つりあい、つまりふさわしいかどうか。
日本人に、西洋式の軍服はふさわしくない。似合わない。そう書いている。

タウトは、その場所に釣り合う建築でなければいけないのだと説く。
そういえば、なんだかミヒャエル・エンデもそういう事を言っていた。
タウトはスカイスクレーパー、コルビュジェの建築にはアンチの姿勢だ。
ミノル・ヤマザキによる世界貿易センターが飴の溶けるように崩れてしまった映像を、もし彼に見せたなら
何と批評しただろうか。
または移転問題に揺れるWTCコスモタワーを、何と批評しただろうか。
今生きていたら…日本に釣り合っていると答えたのかどうか。

セレブな生活に憧れて詐欺容疑で逮捕された女性のニュースを見た。
あれは日本にふさわしいのだろうか?
 釣り合わないものは崩壊する。それが自然の定めだ。

ブルーノ・タウトがコンクリートのモダニズム建築を嫌うのは、あの蜂の巣のように機能的な中に詰め込まれた人は、もはや人としての尊厳を失い、システムの一部に吸収されて、心を失ってしまうからだという。
さて、偏差値、視聴率、売り上げのランキング、そういうもので全てを計測する世の中で、果たして「自然」である事はどれだけ必要なのだろう?
最も人が自然であるといえば、妊娠・出産ではないだろうか。
もはや先進国、あのコンクリートの機能美溢れる世界に、人が自然であるための「出産」なんてものは、ただ原始的で無駄な行為なのではないだろうか?
合理的な教育を徹底的にされた働き者にとって、赤ん坊や老人は、なんて非合理的で、無駄で、意味のないものだろうか。
コンクリートの中の住人達は、機械的に答を割り出してしまう。つまり、都市機能の中で機能不全である弱者は全て排斥すべきだと。

ところが、タウト氏は1930年代にすでに、この事を見抜いていた。あの世界恐慌の後に、彼は嘲笑めいて
「すでに破綻しているのだ」
と。
その後、戦争になった。
復興のためには、きっとタウトよりかは、コルビュジェの方が都合がよかったに違いない。

私はウォルト・ディズニーの「3匹のこぶた」の絵本を読んで育った。
「どうして藁や木の家はダメなのか」
「それは狼が来るし、第一壊れやすいからだよ」
「じゃあ、ウーのレンガの家が壊れたらどうするの? 作るの大変だし。藁や木ならすぐまた作れるじゃない」
「そういうのは、へ理屈だ。レンガがいいといったらいいんだ。それに、ウーは作るのに努力したからすごいんだ。他の二匹は手抜きで怠け者だったから悪いのだ」
大人になった今も、あの時のへ理屈は子供のへ理屈ではなく
日本人として、文化遺伝子が陵辱されたくないというような、本能的な直観だったのではないかと思っている。
こぶた3匹は、襲って来る「狼」に恐怖し、レンガの家に閉じこもり、やがて煙突から入った狼を熱湯で茹でて、逆に食べてしまう。
続きはどうなのだろう。狼の家族が嘆き悲しみ、逆襲のためにレンガの家を大砲で破壊しなかったのだろうか? さらに、破壊されて殺された豚のために、仲間が嘆き悲しみ、狼一族を根絶やしにしようとして、さらに強力な爆弾を使用しなかったのだろうか?

もしもエンデやタウトが「3匹のこぶた」を書いたなら。
それを考えてみても面白い。

CO2の削減目標を掲げられ、ビル・ゲイツまで農業の事を言い出した今日である。
そして、「世界遺産に古いコンクリート建築はいかがなものか」
と言われてしまった今日である。
無論、コルビュジェの、あの偉業を否定するわけではないのだが
日本に釣り合う文化というものを、嫌というほどに考えさせられた。
今後、ブルーノ・タウトの著書は、日本でもっと読まれていくべきだろう。