先日、ちょっと友人らとマンガの背景の話になってから、1つ気になっている事がある。
マンガを描く時、「背景が面倒」「背景のパースが上手く取れない」あるいは「人物とトーン素材が合わない」という悩みはけっこうあるらしい。
きちんとした背景の描き方は、マンガ専門の学校でなら学ぶだろうが、普通科の高校まででだと学ぶ機会は少ないと思う。
私の場合、大学は文章の、それも芸術については実践するよりももっぱら「それはどういうものであるか」を考えるものだったので、尚更だ。自分で技法書を買ってきてやるしかなかった。

頭でたとえ、パースを理論的に知っていても、実際にペンにインクをつけて、定規を当てて線を引く作業は、やってみるとそう簡単ではない、非常に根気のいる作業だとわかるはずだ。
ちょっとでも定規がズレると失敗になってしまう。

パースをつけて背景を捉えるというのは、自分を含めた全体を捉えるという事だろう。
一点透視に必要なのは、世界における「自分の立ち位置」カメラの固定されたポイント、視点である。一点が少しでもずれれば、パースは狂う。

世界の中に置かれた個体。その世界がどんな所かを語る必要が無いなら、背景無しでもかまわないのではないだろうかと思うのだ。
考えなくてはならなかった理由は、「背景なんか真っ白」の同人誌がどうしてOKになるのか、という事だった。
手抜きがどうのではなくて、同人誌という市場はそれを許してしまえる、「世界に対しての視点の違いがある」のではないだろうか? という事だった。
描けないのではなく、描く必要を感じないのではないか。どうしても描きたいのなら、練習してでもこだわるはずだが、おそらくこだわっている部分が違うのだと思う。
こだわりが描かせる。人はどうしても描きたいからそれを描き、そう捉えるからそう描くのだと思う。

そんな折の事、マネの絵を見て気付いた。
エドウァール・マネの絵のパースはおかしい。わざと、なのかもしれないが。
背景に至っては描いていないのもある。はて、このかんじどこかでも見なかったか?
PRBのロゼッティ、彼は人物画にあまり背景を描かない。J.Eミレイの作法を見たが、彼は全体的におおまかに捉えてから細部を描き足す、という方法をとらず、いきなり細部から細かく描いていた。

全体をおおまかな形でとらえ、プロポーションや比率に気を配りながら描きこむのが、正確に描くコツだ。
PRBはアカデミックなやり方に反対していたから、もしかして意図的にそうしていたのかもしれないが(そこは調べないとわからないけれど)

細部をクローズアップしてどんどん先に描いてしまう。これは、実に無邪気なやり方だ。
子供は全体なんかまったく気にしない。描きたい部分から描いて、どんどん追加していく。
その結果、20世紀以降の絵のようなものができる。
多くの人が名画展の名画を見て「写真のように上手いね」と技法に感動する。
子供の絵を見て、「やっぱり子供らしいデタラメ絵」と納得する。

私は以前、イラストレーター、画家、漫画家、シロウト、同人誌漫画家に対して広く
「絵をどこから描き始めるか」を聞いてまわった事がある。
その結果、プロの絵描きとして活動している人ほど「どこからという事ではなく、全体的に」描きはじめ、シロウトに近づくほど「気に入った部分」つまり、人物のカオの輪郭、眼だと答えた。
私が推論するのは、プロはそう習ったから、なのではなく、わかり安く正確に描こうとすれば、おのずとそうなってしまうのではないかという事だ。
この話を、表現主義系の画家にもしてみたら、「好きなとこから描いたらええんちゃうん、絵なんか自由やで、決まってへんで」と言っていた。

細部や人物を端的にクローズアップ、それは日本画によく見られるやり方だ。
「パース」の技法はルネサンス時代のブルネレスキが発明した。
だから、理屈から言えば、少なくともブルネレスキの生前、中世まではパースをつけた描き方は全くしなかった事になる。
ところが、ロマネスクまではともかくとして、ゴシック聖書の「祈祷署」に空間表現が全く見られない、という事でもないのだ。

$たのしい21世紀芸術-ピュセル ジャンヌ・デヴルーの祈祷書

ジャン・ピュセルの「ジャンヌ・デヴルーの祈祷書」 受胎告知部分。1325~1328
(ちなみに日本語の資料を探そうとすると萌え絵のゲームキャラしか無くて苦労する。邪魔でしょうがない。自分もオタだけどいいかげんにしろよと言いたくなる。日本で「インターネットで資料は何でも手に入る」と思う程愚かな事はない、という事だ。つづりは Jean Pucell)

これを見ると、透視図法は完成してはいないまでも、奥行きをもった一点透視を描こうとトライしてきたのではないだろうかと思うのだ。これの他にも、正確なパースではないにせよ、いくつかある。ブルーデルラムの受胎告知、ニコラ・バターユの「龍を退治する聖ミカエル」…。
トライしつづけようという心意気があるからこそ、透視図法を発明したブルネレスキの遺志をアルベルティが継いだ。

この当時といえば、日本では「枕草子絵巻」などの絵巻物の時代だ。そもそも「絵巻」は横に長いのでこの「一点透視」が無い。

 実は今週のアニメ「銀魂」で、ランキングの話をしていたのだが、ランキングというのは、世界に置いての自分の立ち位置の確認だというかんじだった。(そしてそれがけしてプラスに働くとはかぎらないのはなぜなのだろうと)
合理的には、立ち位置を決めて、自分と世界との距離を客観的に世界を捉え、それから自分がどう動くか自由に目的を取る。自由は、動く事ではじめてもたらされる。
それはなんだか洋物のゲームの視点や方法にも似ている。

さて、ここでマネの絵に戻る。
マネは、ボードレールと親しかったはずだ。それを言うならボードレールの大将とPRBも地続きだ。
「悪の華」か。
(どうして同人誌即売会でボードレールの詩集を販売しないのだろう)

ロマン派や象徴派は、非合理的なものへ傾倒しているために、物の捉え方自体が違うのではないか?
つかまえなければならない「現実」と、世界を捉えるという以前から存在する「自由」
つまり、理解のために共有すべきものが、世界ではなく感覚的なものであればあるほど
「一点透視」から外れていく。

さあこのバランスを上手くとり、いかに上手くごまかすか…

そうだ、いい事を思いついた。
背景のパースが上手くいかなかったら
「マネの真似です」
という言い訳をしよう。