去年、空海の東寺と、聖徳太子ゆかりの四天王寺をまわった。空海は太子を尊敬していたようだ。
見たかったものがあった。それは、密教にある、四天王、増長天と持国天だった。

ゲームやコミックにも「なんとか四天王」としてよく登場する。その四天王は、増長天、広目天、多聞天、持国天から成る。おそらく多聞天が1番知られていると思う。別名を「毘沙門天」といい、これだけが独尊としても在る。
広目天と多聞天は「情報」に関するものなのかもしれない。
では増長天と持国天は…

私は、持国天が東方を護ると知った時、咄嗟に「では増長天は西ですか」
と思ったものだった。実際は、塔内に置かれる場合対にはなって配置さりるが、増長天は南の方角を護る。

ちょっと知人の仕事の関係で、ロシア正教というものを知るハメになり、少し東方教会について読んだ。東と西についても考えるきっかけになった。
元・西ドイツの人間から見た東ドイツの人間は、「だらだら馴れ合ってる」で、東から見た西の人間は「せかせかしてて利己主義」らしい。なんかわかる。
この対立関係に良く似た空気を知っている。勝ち組対負け組 オタク対パンピー 
…世界のあちこちに、この関係のような空気の対立を見る。それはまるで対極図のようだ。
相対化するという事は、とどのつまりは陰陽の二つを示すだけなのかもしれない。
だとしたら、それは相対化したのではなく、もう片方の価値にも気付いたというだけだ。

ブルーノ・タウトの建築論を読んでから、彼の語った「バランスを失ったものは崩れる」という、そのごく当り前の事が、あのニューヨークの世界貿易センタービルの、ツインタワーに飛行機が突っ込んで崩れ落ちた映像と、どこかつながって、繰り返し連想されてしまう。どこかひっかかってしょうがなかった。

タウトの著書と、だいたい同じ時期にコミュニストであるE・フィッシャーの書いた「芸術はなぜ必要か」という本を読んだ。どこへ行って、誰に尋ねても「共産主義はシステムが間違っていたから崩壊したのだ」としか答えてはくれないだろうし、そうかなと異論を唱えれば、二者択一しか残されていない。
 それが嫌でたまらない。
 ならば、コミュニストがコミュニズムまっただ中の世の中では、芸術をどう捉えていたのだろうかと思ったのだ。

ーーもし仮に。単に、芸術というものが、資本主義に疲れた人の癒しの場や逃避の場所にすぎないものだとするならば、自立できた「大人」には悉く必要の無いものだ。本当にそうならば、世界中に美術館なんか必要無い。美術も音楽も学ぶ必要がなくなる。何故なら、そういったものは全て単なる時間の浪費、くだらない遊びの結果、逃避にすぎなくなるからだ。そんな事は、19世紀末にオスカー・ワイルドが皮肉めいた言い方で、とっくに指摘しているような事だ。
 資本主義社会の中で生き延びた芸術は、合理性に迎合できずに逃避するもの、あるいはもとから本質的に持っている(人間的とされるかもしれない)非合理を商品化するものになった。つまり、売れれば良いって事だ。だが、売れれば良いは、結局はシステムの中での一方的な価値観でしか無い。売れなくてもよい、というのではなく、売れる・売れないは、経済主義の下で芸術を裁いているだけの事であって、その本質とははなから無関係である。
たとえば、ランキングのような、数字の部分から切り離した評価方法を考えていかなければ、芸術は永遠に、自由の名の下で不自由を味わってばかりのものになるに違いない。

欲望を満たして逃避だけしたり、大人社会に対して反抗するスタンスを取るもの、
例えば少々キツいが、ボードレールやゲーテあたりから、すでにそんな方向だった、とするならば、
 じゃあ、共産国家ではどういうものであったのか。逃避や癒しやレジスタンスではない芸術とは何なのか。私はそれが知りたかった。

 フィッシャーは、著書の中で、先日亡くなったサリンジャーをほめている。アメリカでは禁書になり、ヒキコモリやパンクのバイブルのようなサリンジャーを。

今、ウクライナが東西二分で揺れている。
ヨーロッパの価値観を定着させようとするチモシェンコと、ロシア寄りに行こうというヤヌコビッチ。
どちらにつけばよいか。その、遠い国でのジレンマは、急に矮小なものになって自分のジレンマにつながっていくから面白い。
ウクライナの芸術家は、世の中をどう捉えているのだろう?

バランスを失えば崩壊する。
我々日本人は、本質的に統一思想が好きであり、自ら考えるよりは大勢の意見に従う事で安心するのかもしれない。独りで考える事は孤独で、それゆえに異端視されがちなものだ。
しかし、孤独を恐れていては、おそらくどんなものも生まれない。
日本が国際的に孤立してデフレなのは、独りで引きこもってアイデアを練っている人にまで、資格や学歴の大事さを説き、無理矢理に同じ「上手くいくノウハウ」を押しつけようとするからだ。
孤独と混沌からしか、自分の考えは生まれない。考えずにノウハウに従えば、そこには虚しさしか待っていないはずだ。

 我々はここで、自ら考える事を放棄して何かの考えに委ねる、というマインドコントロールを、世界の多くの人は「気持ち悪いと感じるのだ」という事も、はっきり自覚しておかねばならない。

世の中はおそらく、増長天と持国天を前方に配置し、後方を多聞天・広目天という情報が支える、そんな風になっていると昔の人は考えたのだろう。
増長天と持国天のどちらが正しく、どちらが間違っているのか、そういうものではないのだ。
四天王の意味するものは、精神の自由のために必要な4つの力だ。情報の波の中で、本当に物事を考え、己で選択していくための力なのだと思う。それらはけして、人に虚無感を与えるものではない。


童話作家で哲学者のエンデは言った。
「本当に自由になりたければどうなりたいかイメージを持つ事だ」と。

ーーではもし仮に
そのイメージが、世界にあって「ネオリベラリズム」と呼ばれたものと真逆のものであったとしたら、それはどうなるのだろう?

政治に関しては知らない。だが、芸術に関してならば、1つだけ言える。
バランスを失ったものは崩壊する。そして、美とは調和とバランスの事だ。
百万のラインの中から、己の力で、唯一だと思う線を選び出す事。その行為そのものについて、一体、考えずに他者に従うだけの誰が、その正誤を言えるのだろうか。
芸術精神の自由とは、多くを聞き、広く見て、混沌の中からイメージを掴み、次の1を作り出す
その作業を悉く妨げるものからの脱却、なのだろう。