正月早々に、夏野剛さんの「グーグルに依存し、アマゾンを真似るバカ企業」という幻冬舎新書を読んだ。最近、この手の新書はタイトルに「バカ」とつけるとヒットするらしい。
釣りだとわかっているけれど、夏野さんなのでつられてみる。夏野剛さんといえば、その正体はドワンゴ、ニコニコ動画を裏で操る、悪の秘密結社の大ボス、モリアーティー教授…とまでいくと冗談だが、そういうITメディアに詳しい教授。

 さっと読むにに、インターネットに疎く、絶対主義で育った50代なんか、企業の役にたたないと思う、さっさと引退して、後はネットに詳しい世代に任せればいい、今や世の中はITの発達によって相対的になったのだ、と書いてある。別にそこがこの本のテーマという所ではないので、気になった方は鵜呑みせずに、ぜひご一読を。

 いろんな意見があってよいのが相対的な良い場所なのだから、私も私の意見を書くとする。

夏野さんの考え方、それもまた絶対主義だ。相対的であればという時代の権威の下にある絶対主義なのだ。

使いこなすかどうかは別として、私は企業側ではなかったが、次々と誕生するネットサービスにミーハー的に飛びついた、正真正銘のユーザだった。個人サイトの掲示板、2ちゃんねる、各種SNS、ニコニコ動画にグーグル。
ITの中で生まれた人間関係と、奇妙に並行している、昔ながらの人間関係と、バランスを保ちつつやってきた。そして、ITによってうまれた関係がある一方で、ITが無ければ失わなかったのではないか、という人間関係があるのも事実だ。

相対的、絶対的の空気の違いを、難しい言葉に置き換えずに、私のいた場所から語ろうと思う。
つまり、こうだ。
その昔、「同人誌」とは、熱く「好き」で同調する場所だった。
「○○っていいよねー」に対する返事は「うんうん、私もそう思う。人気あるし、皆も好きだし、いいよねー」で繋がれるものだった。
しかし、相対化した場所では、必ずしも「私も」ではなくなったし、逆に同じものでベタにつながっていたいとする関係は、わずらわしいものにすらなった、という事だ。
夏野さんが定義するバブル経験までの、絶対的なマスを知ってる世代からしたら、今の世代は孤立的で言葉が少なく、とてもクールだ。「昔はよかった」という話をすると盛り上がる…のは、いつの時代も、時代が変化していく時の、世代のつながりを確認するための会話の手段かもしれないが。
 私は、相対的な世代となんとなくダラダラ、ゆるくマッタリする方が、気楽でいいと思う時もある。ある程度勝手に好きなので放っといてくれた方が、縛られないでいいと思う。

 そう、そもそも「自分の意志」「個性」と言って揺るがなかった世代、その人達が自分の意志だと思っていたものは、本当に自分の意志や個性だったのか?
 意志と自由、個性を謳うという名目での統一思想ではなかったのか?
とすら、思えてくるのだが。ちょっと意地悪だろうか。

個性的である事を認めているというのなら、今の時代の方がそうだろうに
何故、今の世代の絵柄は個性に乏しいと思われ、また実際そうなのだろう?

では、横のつながりが無くなった上で、皆でもりあがる事はもはや困難なのか?

私はここにこそ、新しい試みが必要なのではないかと思う。
結局、「ニコニコ」のコメントが楽しかったのは、相対的でバラバラで、同調するはずのない空間に見つけた、奇妙な同調感だった。皆同じ時間に同じコト思っているんだな、という安心感、そして2ちゃんねるでは叩き合いに発展する可能性のあるあの、醜い言葉の羅列、嫌な空気ではなく、楽しさで繋がれる空間だったからだ。

本当に相対的な場というのは、「相対的だから、昔の考えをする人は去れ」と言わない場所だ。
昔の考えもやり方もまた、あっていいはずなのだ。
そもそも日本式の井戸端会議状態は、結論の出ない事を楽しむものであって、相対的な中から1人のリーダーが正義をぶちかまして、人々を戦争の道に導いていく所には無いと思う。
そしておそらく、そうした世界は発展しないだろう。
夏野さんがイライラと懸念する通り、日本は遅れたまま、儲からず、上手くもいかないだろう。

が、ユーザは使う方、お金は出ていくばかり。もともと一文も儲からないものだ。
企業経営者じゃないから、好き勝手に楽しい事ができたらそれでいい。ちょっとだけ、オークションで売れたり、友達と話ができたり、ヒマがつぶれたらそれでいい。

ただ、1つだけ言いたい事がある。
企業にとって魅力的なお金儲けの場所であるネットビジネス、それをただ利用し、利用されて、人同士の関係までをもバラバラにされたくはない。私達は、今後「これだけは」という道義をおのおのが持ち、そしてただ企業に利用されるバカなカモ達である事をやめなければならない。
企業は、友達がどうなろうが、恋人がどうなろうがそんな事まで考えてはくれないのだ。
しかし、私達は確実に、もはやITによって変革された人間関係の中でしか生きられない、という事だ。

相対的という事は、もちろんいろんな人がいろんな考えを持っていていい、という事。
ポートフォリオ教育で育った世代は、それがとても顕著だ。

模索されるべきは、とあるライブ。
「コンサートでみんなで1つになれた」世代を排除せずに、「みんなで歌わなくてもいいが歌いたい人は歌ってもいい」という考えもまた、否定しない事。
その距離感は、実際に顔を合わす事のない空間でどこまで可能なのか。

私達はそれを、この2010年代に見つけられるだろうか?
そんな事を考えた正月だった。