「多くの学生が大学を出る。最高等の教育の府を出る。もちろん天下の秀才が出るものと仮定しまして、そうしてその秀才が出てから何をしているかというと、何か糊口の口がないか何か生活の手蔓はないかと朝から晩まで捜して歩いている。天下の秀才を何かないかと血眼にさせて遊ばせておくのは不経済の話で、一日遊ばせておけば一日の損である」

これは、夏目漱石が明治44年(1911年)明石で行った講演「道楽と職業」の1部だ。
だいたい100年ほど前になる。ちょっと端折りながら紹介すると、以下にこうもある。

「どこへでも融通が利くべきはずの秀才が懸命に駆け廻(まわ)っているにもかかわらず、自分の生命を託すべき職業がなかなか無い。二ヶ月も三ヶ月も遊んでいる人があるのでこれは気の毒だと思うと、あにはからんやすでに一年も二年もボンヤリして下宿に入ってなすこともなく暮らしているものがある」

 漱石は、一年以上下宿にこもって下宿代も払わない知人のために、何か職はないかと周囲にも訪ねたが、どこにもそういう口はなく、そのままであると語る。
 これだけたくさんの職業があるのだから、理屈から言えば何かあってしかるべきで、結婚と同じで全く誰もいないわけがないだろう、だからこう言っては何だが、大学に「職業学」という講座を設けてはどうだろうと。

なんだか、100年前の話には思えない。むしろ今をこれ以上に語っているコメンテイターはどこにもいないと思えるくらいだ。

 この講演で、漱石は職業が道楽と違うのはどこかという事を語る。
 好き勝手にはできず、我が儘を言ってはなりたたず、世の言うままに従い、己をどこまでも消して、人のためにあるべきだと。
「人のためにというのは、人の言うがままにとか、欲するがままにといういわゆる卑俗の意味で、もっと手短かに述べれば人のご機嫌を取ればというくらいの事に過ぎんのです。人にお世辞を使えばと云い変えても差し支えないくらいのものです」

 しかし、そう述べた後、科学者、哲学者、芸術家だけは、普通の職業とは違うのだと話す。ボードリヤールが言うより半世紀以上も早く、明治の日本で、言いきっていた漱石。なんとも気っぷがよくて、江戸っ子だなと思ってしまった。
 さて、この不景気。今やたとえ同人誌といえど、一年に全く一冊も売れない状態では、イベント参加費やその他も含めて、かなりの「道楽」を覚悟しなくてはならないだろう。
印刷しなくても自己表現らしきものはできる。その点は明治よりいい時代ではあるが、このブログにもランキングはある。
それにもまして、何の保証もない不安定さ。食べていけなければ「無職」。漱石の知人のように、開きなおっていられればよいのだが、マスコミによって上手く仕掛けられた「自動監視装置」は、無職である事に対しては冷たい。明治人の持っていたつながりは失われ、情報技術の発達により、匿名でのバッシングだけは「常識」だのといってまかり通る世の中になったのではないだろうか。

「売れれば勝ち」「売れるためには自分を商品化する」「売れなくてはいけない」

 ポストモダンが奪ってしまったものは、本当の文化と、それを追い求める者の凄まじいまでのプライドと自我かもしれない。物を作るという行為には、エネルギーがいる。かなりそれは主体的な行為で、世の中から見たら「我が儘」なものだ。
天才は我が儘だ。秀才は増えた。しかし秀才は、自分の手を汚したり、損までして己を貫こうとは思わない。そして彼らは、売れずに辛い人生を送る天才よりも、そこそこに楽ができる秀才の方が幸せだという、そんな価値観だけに塗り替えてしまった。
 ゲストコメンテイターとして、あるいは「アドバイザー」として。世の中全てがサラリーマン的価値観であるべきだと、もっともらしい意見を吹聴してまわっては得意気である。道を見失いそうになる「価値ある道楽者」がいるとも知らずに。

「…それから芸術家もそうです。こうしたらもっと評判が好くなるだろう、ああもしたらまだくらしむきの助けになるだろうと傍の者から見ればいろいろ忠告のしたいところもあるが、本人はけっしてそんな策略はない、ただ自分の好きな時に好きなものを描いたり作ったりするだけである。…まあたいていから云うと自我中心で、極く卑近の意味の道徳から云えばこれほどわがままのものはない、これほど道楽なものはないくらいです」

「本来から云うと道楽本位の科学者とか哲学者とかまた芸術家とかいうものはその立場からしてすでに職業の性質を失っていると云わなければならない」

 もし、日本の文化、ことに今、注目されている「マンガ」「アニメ」「ゲーム」といったものを、世界的に本当に認められる総合芸術として「殿堂」を作りたいのなら、まずは本物の育つ大地を作る事が先決ではなかろうか。でなければ、我々はマンガやアニメという手法のみを海外に輸出し、芸術とはいかなるものかを良く知る海外の優れた作品によって、単なる「発祥の地」にすぎないものにされていくはずだ。

 まず、漱石に学ぶとするならば
「クリエイターはあえて空気を読んではいけない部分を持つべき」
もちろん、世の中が何を求めているのかを全く無視して、己の世界のみならば、ただの妄想だ。しかし、何らかの形に仕上げる、という行為そのものを知っている人ならば、どれが妄想であり、どれが想像であるのか知っているのではないだろうか。優れた作品とは、世の中の必然である事を、無意識の上で知っているのではないだろうか。

 20世紀。漱石がこの講演を行った後の世は、多くの者が大きい事、大きな数や物を選んだがために、多くのものを失った世紀だったと言えないだろうか。大量消費社会は、常に「多数決」を望んだ。しかし、多数決が本来の力を発揮するのは、あくまで僅差の時だけだ。偏向報道やサブリミナル、ランキングまでをも駆使して「大衆」を煽動し、ビッグヒットばかりを追いかける、ただそれだけが正しい事だとされる認識の下で、果たして、日本人に本物に対しての評価がきちんとできると言えるのかどうか。
 それが果たされないから、多くの芸術家、科学者--漱石風に言えば「道楽者」が、この国を出て行かざるを得ない状況なのではないだろうか、と思えるのだ。

 売れなきゃダメ、それはおそらく、ただの商品としてならばそうである。
しかし作品はただの商品ではない。思想もそうだ。
 
私は、あらゆるクリエイターに対して、もっと誇りと自信を持って欲しいと思う。
世に送り出しており、描いているのが「人物」であるのなら。自分であれキャラクターであれ、もし、その商品に少しでも、「人」が描かれているのなら、それは単なる物質ではない。
 とてつもなく強烈な自我を、むしろ持っていてほしい。その方が魅力的だ。

「直接世間を相手にする芸術家に至ってはもしその述作なり制作がどこかの社会の一部に反響を起こして、その反響が物質的報酬となって現れて来ない以上は餓死するよりほかに仕方がない。己を枉(ま)げるという事と彼らの仕事とは全然妥協を許さない性質のものだからである。」

 漱石の100年後を生きてみたいと思うなら、100年間にあったあれやこれやから学んでいなくてはならないはずだ。
 何が人を惑わせたのか。何が、人のためにあったのか。失ってはならないものは何で、本当に目指すべきは何で、創る者はどういった態度であるべきなのか。
 それを貫くのは、容易く甘い事ではないかもしれない。しかし、本物を目指したいならば、売り上げランキングに媚びる必要などどこにも無いのだろう。


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出典 「道楽と職業」漱石傑作講演集/夏目漱石 ランダムハウス講談社
ISBN978-4-270-10130-8