カルトの本と同様に、共産党員の書いた本というのは私にとってはなかなかフランクな感覚では読めない。冷戦は終結し、ソヴィエトは崩壊した。コミュニズムの抱いた理想郷が崩れ去った後の社会を生きている。
古本市をめぐって、冷戦時代に出た本を買った。今後の共産国家について書いてあった。まさか崩壊して、21世紀の今、アメリカが戦っているのがソ連では無いなどとは。
私は、九州ではありがちなのだが右翼系の家庭に育った。祖父母は明治末期の生まれ、軍にいた。その後は父が自営業をはじめたので、小さい時は「サトウエイサクばんざい」と言うと、家の者は喜ぶ。だから何度もその名を言った。誰かは知らなかった。
やがて、中学になると、音楽の担任が共産党員だった。音楽の先生は何度も、被爆者の話をし、平和の話をし、銃を嫌い、差別を憎んだ。それはそれで正しい理想だったし、子供だったのでそれもまた信じた。
しかし、教師と祖母はまるで、水と油だった。その先生が話した事を家で話せば、「とんでもない教師がいる。赤だ。赤はこの家にいてはならん。出て行け」と言われた。
私は恐ろしくなり、二度と音楽の先生の話はしないでおこうと思った。一方、先生は、ウチでは敬愛すべき天皇陛下を、恐ろしい戦犯であり、憎むべき存在のように語った。
まだ子供だった私には、何がなんだかさっぱり理解できなかった。
とにかく、デヴィッド・ボウイはカッコよかったし、ヘヴィ・メタルもカッコいい。クラッシュ、ポリスも好きだし。カッコよければ無国籍に受け入れる。そんなミーハーな子供だった。
しかし、祖父は「鬼畜の歌を聞いてこの非国民が」と言って怒っていた。戦争のトラウマは、祖父母には強く残っていた。
そんな事を思い出しながら、エルンスト・フィッシャーを読んだ。
フィッシャーはマルクス主義者だ。社会民主党機関紙記者、1934年にはオーストリア共産党の党中央委員となった。
社会にとっての、芸術の有益性を語る彼は、まるで私の友人のように思えるのに。
共産国家は幸せで、理想的で満足している、と語られると、どうしてこうも…
今まで盛り上がっていたのに、急に遠くなってしまうように感じるのだろう。
多分、私には信じられないのだ。
モリスも書いた、そして、社会主義や共産主義者達が言う理想的な国家、ユートピアが本当に到来するのか、存在するのかという事が。
自分は、彼らからしてみたら、なんだかものがなしく、永遠に不幸せな場所に生きている気がしてくるのだが。
カルト信者、そして共産主義者の言う「楽園」に、私は多分入れない。懐疑的であるからなのだろう。
秋葉原で「世の中がイヤになったから」という理由で、無差別殺人が起きた事件はまだ記憶に新しい。といっても、こうしているうちにもどんどん時は経過していくのだが。
今、リーマン・ショック、ドバイ・ショックと、不況の波が襲う。世の中はとんでもなくよく無いものになっているのかもしれない。
キレイゴトを言って稼げるほど楽ではない。
フィッシャーは笑うだろうか? ウィリアム・モリスや、ミッシェル・フーコーはどう言うだろう?
共産党の考えをするなら家から出ていけという祖父母はもういないし、やたら平和活動に熱心で、天皇批判をしていた教師も今、どうしているのやら。
私は、もう大人になった。自由に、自分の責任で生き、自らの考えを持ってよいのだ。
私が思うのはこうだ。
世の中が一度だって「良い世の中」だった事があっただろうか?
ベル・エポックと呼ばれた時ですら、貧しく凍えて死んでいく者はいたし、一方、戦時中ですら、ほんの少しの幸せを見つける事ができた人はいた。
全てを世の中のせいにして、というのは確かによく無いし、理解できない。
しかし、世の中の弱点を知るアウトローが、完全にカスみたいな存在である、ともまた言えない。社会の弱点を知るならば、ぜひ教えてもらって改善すべきだ。
私達は、ユートピアに行く事はかなわなくとも、「これが世の中」「どうせダメ」と諦めるべきではない。少しでも良くなるような努力は、否定すべきではない。中世ですら、理想はあった。理想までも否定してはいけない。たとえ「赤」であったとしても、あの教師の平和活動は間違っていたわけではないのだ。
しかしまた同時に「天皇が戦犯」という極端な考え方を鵜呑みして受け入れるわけにもいかない。日本の歴史や文化、伝統は罪ではないのである。天皇制=右翼=戦争好き というのは短絡的すぎる。
これからの考え方はこれから作っていけばいいだけの話だ。私達は、流される事なく、自ら考えつつ、色々な事を更にもっと、よく知らねばならないだろう。
世の中とは酷い所かもしれない。だけど楽しい事を見つければ、そう捨てたものでもないフキダマリ。
そのフキダマリで、酷いストレスを楽しいものに変えていく力がある。
その一端を担えるのが芸術ならば、人は音楽も絵画も、けして不必要とする事はないだろう。
だってもし、今が本当に何の苦もないユートピアなら
それこそ芸術は必要無いではないか。くだらない世の中だから、よく無いからこそ面白い。そこは、理想をかなえるための力が必要だ。人はそれを「努力」と呼ぶ。
ゴミ溜上等。無いものは作ればいい。未来は切り開いていくべきだろう。
そこに、国家なんか関係ないのかもしれない。
古本市をめぐって、冷戦時代に出た本を買った。今後の共産国家について書いてあった。まさか崩壊して、21世紀の今、アメリカが戦っているのがソ連では無いなどとは。
私は、九州ではありがちなのだが右翼系の家庭に育った。祖父母は明治末期の生まれ、軍にいた。その後は父が自営業をはじめたので、小さい時は「サトウエイサクばんざい」と言うと、家の者は喜ぶ。だから何度もその名を言った。誰かは知らなかった。
やがて、中学になると、音楽の担任が共産党員だった。音楽の先生は何度も、被爆者の話をし、平和の話をし、銃を嫌い、差別を憎んだ。それはそれで正しい理想だったし、子供だったのでそれもまた信じた。
しかし、教師と祖母はまるで、水と油だった。その先生が話した事を家で話せば、「とんでもない教師がいる。赤だ。赤はこの家にいてはならん。出て行け」と言われた。
私は恐ろしくなり、二度と音楽の先生の話はしないでおこうと思った。一方、先生は、ウチでは敬愛すべき天皇陛下を、恐ろしい戦犯であり、憎むべき存在のように語った。
まだ子供だった私には、何がなんだかさっぱり理解できなかった。
とにかく、デヴィッド・ボウイはカッコよかったし、ヘヴィ・メタルもカッコいい。クラッシュ、ポリスも好きだし。カッコよければ無国籍に受け入れる。そんなミーハーな子供だった。
しかし、祖父は「鬼畜の歌を聞いてこの非国民が」と言って怒っていた。戦争のトラウマは、祖父母には強く残っていた。
そんな事を思い出しながら、エルンスト・フィッシャーを読んだ。
フィッシャーはマルクス主義者だ。社会民主党機関紙記者、1934年にはオーストリア共産党の党中央委員となった。
社会にとっての、芸術の有益性を語る彼は、まるで私の友人のように思えるのに。
共産国家は幸せで、理想的で満足している、と語られると、どうしてこうも…
今まで盛り上がっていたのに、急に遠くなってしまうように感じるのだろう。
多分、私には信じられないのだ。
モリスも書いた、そして、社会主義や共産主義者達が言う理想的な国家、ユートピアが本当に到来するのか、存在するのかという事が。
自分は、彼らからしてみたら、なんだかものがなしく、永遠に不幸せな場所に生きている気がしてくるのだが。
カルト信者、そして共産主義者の言う「楽園」に、私は多分入れない。懐疑的であるからなのだろう。
秋葉原で「世の中がイヤになったから」という理由で、無差別殺人が起きた事件はまだ記憶に新しい。といっても、こうしているうちにもどんどん時は経過していくのだが。
今、リーマン・ショック、ドバイ・ショックと、不況の波が襲う。世の中はとんでもなくよく無いものになっているのかもしれない。
キレイゴトを言って稼げるほど楽ではない。
フィッシャーは笑うだろうか? ウィリアム・モリスや、ミッシェル・フーコーはどう言うだろう?
共産党の考えをするなら家から出ていけという祖父母はもういないし、やたら平和活動に熱心で、天皇批判をしていた教師も今、どうしているのやら。
私は、もう大人になった。自由に、自分の責任で生き、自らの考えを持ってよいのだ。
私が思うのはこうだ。
世の中が一度だって「良い世の中」だった事があっただろうか?
ベル・エポックと呼ばれた時ですら、貧しく凍えて死んでいく者はいたし、一方、戦時中ですら、ほんの少しの幸せを見つける事ができた人はいた。
全てを世の中のせいにして、というのは確かによく無いし、理解できない。
しかし、世の中の弱点を知るアウトローが、完全にカスみたいな存在である、ともまた言えない。社会の弱点を知るならば、ぜひ教えてもらって改善すべきだ。
私達は、ユートピアに行く事はかなわなくとも、「これが世の中」「どうせダメ」と諦めるべきではない。少しでも良くなるような努力は、否定すべきではない。中世ですら、理想はあった。理想までも否定してはいけない。たとえ「赤」であったとしても、あの教師の平和活動は間違っていたわけではないのだ。
しかしまた同時に「天皇が戦犯」という極端な考え方を鵜呑みして受け入れるわけにもいかない。日本の歴史や文化、伝統は罪ではないのである。天皇制=右翼=戦争好き というのは短絡的すぎる。
これからの考え方はこれから作っていけばいいだけの話だ。私達は、流される事なく、自ら考えつつ、色々な事を更にもっと、よく知らねばならないだろう。
世の中とは酷い所かもしれない。だけど楽しい事を見つければ、そう捨てたものでもないフキダマリ。
そのフキダマリで、酷いストレスを楽しいものに変えていく力がある。
その一端を担えるのが芸術ならば、人は音楽も絵画も、けして不必要とする事はないだろう。
だってもし、今が本当に何の苦もないユートピアなら
それこそ芸術は必要無いではないか。くだらない世の中だから、よく無いからこそ面白い。そこは、理想をかなえるための力が必要だ。人はそれを「努力」と呼ぶ。
ゴミ溜上等。無いものは作ればいい。未来は切り開いていくべきだろう。
そこに、国家なんか関係ないのかもしれない。