民主党の小沢幹事長がキリスト教やイスラム教は排他的で行き詰まる、などと高野山で真言宗の管長に語ったそうだ。
キリスト教、イスラム教といっても色々ある。私も、ゴシックについて調べないうちは、ああもカトリックの教会堂に異教がふんだんに取り込まれている事も知らなかったし、イギリスに残る土着信仰が土地の信仰とキリスト教の融合したものになっているというのも知らなかった。
 聖書は1つではない。正当とされるものが1つなのであって、各宗派によって、聖書をベースにした二次創作的な創造神話があったりして、「偽典」「外典」など実に様々だ。中にはもちろん、イスラムやインド神話その他の影響が見られるものもある。ギリシャ正教なんかもそうだろう。
 
 日本が、満月を愛でるのに比べたら。キリスト教では満月を恐れる。月は魂の保存場所だと信じられていたようなものもある。太陽と男性が常に優位であり、女性と月を連想させるものは下位。
 かつて、旧約創世記のアダムにはリリスという妻がいた。イヴとの違いは何か。
 リリスが天によって罰せられた理由は、毎晩物質的に扱われ、常に受け身でレイプされるだけの屈辱的な生活に耐えきれず、逃げ出したからだった。妻としての勤めを果たさず、男に従順な物質になり得なかったから。中世の悪魔研究では、リリスに対する罰に別の理由をみつけているようだ。
 アダムの元を去った後、堕天使(悪魔)のルシファーに魅了されてしまい、そこでたくさんの子を作りながら、アダムとも密通した淫乱だからと。
 私は何故かこのリリスに、どことなく「源氏物語」のような哀しさを感じてしまわずにおれないのだ。つまり、アダムは常に女を物であり所有物としてしかみなかった。アダムにとって都合のいいだけの女でいる事に耐えられず、抜け出した。ルシファーが与えたものは、日本的に言えば「優しさ」なのではないだろうか。太陽でなく月の持つ、魂に対しての慰め。
 それがあったからこそ、アダムとではなく、ルシファーとの間に子供を作ってしまったのだろう。
しかし、天はその生まれた子供(毎日100人)を、悪魔の子だとして次々に殺してしまう。嘆き悲しんだリリスは紅海に身投げして死んでしまう。

 禁欲的でなければいけないと説いたからこそ、排他的になってしまった。西洋は行き詰まったのではなく、「月」である無意識や情念を、いかに対処していくか、
 つまり整えられていく無機質な秩序の中で、その説明のつかない非合理に、どう対処していったらいいかに困ったのだろう。そこでは、女性的である事自体が悩ましく、忌まわしいのだろう。
 
 14世紀に異端として根絶された、キリスト教の一派カタリ派は、ニーチェが言うような二元論に基づいていた。グノーシス派やボゴミル派と同様、古代ギリシャの思想の流れを汲んでいるといってもいい。
  そこでの真理は、太陽だけではない。太陽に対して月もまた、1つの真実だと捉える。
 物理学の方面で最近注目されている非対称性の話と、グノーシス派の言う考えや、ユングの無意識の心理学、日本でそれこそ密教にみられる陰陽の考え方を総合的に見ていくと非常に面白い。それはきっと、生命がどこから来て、どこへいくのかという、あのゴーギャンの問いと同じものに関わっているのだろう。

 キリスト教についていえば、いろんな柵の中で「異端」を作っていかなければならなかったのだという歴史があると思う。イスラム教キリスト教が排他的だ、として排他するよりは、
宗教の枠を超えて、信仰としてではなく物の考え方の1つとして、キリスト教で異教とされたものと、日本的な物の見方の接点を探る事、それが、日本が道を示すための1つのヒントになりはしないかと思うのだ。

この女性的な感性を持つ国で、女性である事が何とも愉快に感じられる。
出産するというのはなんと反社会的な行為になってしまう時があるのだろうと。

「子供は国の宝」と言われる前に「いいえ、まず私の宝なんですが」と思ってしまう。
少子化は母神の衰退の結果にすぎないではないか。
とてもプライベートで、デリケートな闇から、人は誕生する。
その闇に対して、自由とはき違えられた放縦が、節制も知らず野放しになる
「何でもあり」な状態を、排他的ではないと尊べば、我々はキリスト教国からではなく、
世界的に悪魔を生産し続ける国だと思われるだけなのだろう。
必要なのは他者を理解する知恵と、優しさと、コントロールする理性。
そしてそれは、お金やデータではなく、コミュニケーションの中でのみ培われるのではないか、と日々思っている。