象徴表現は、比喩とは違う。

それは、芸術の種であり、水中花のようなものだ。
ほんのひとかけらの詩から、残された手がかりから
芸術家が見ていた世界の全てを再生できるものだ。

しかし、そこに感性という水が無ければ、花はけして開かない。
想像力が無ければ、その種は種のままで発芽しない。

1人の芸術家が、本物であろうとするのは、できるならばただの消費としての物のやりとりではなく
自分や他者の存在の儚さを充分に知った上で
時間や死を超えて存在し得る存在を目指そうとするからだ。

おそらく、市場においてそれは無意味なものだろう。
それは、1つの意味にしばられた思想ではない。
人はどうしても作品の中に「考え」を読み取りたがる。
だから、詩の意を訊ね、あるいは寓意画を読み取ろうとする。
しかし、そういったものの愉しみ方とは全く異なるものだ。

芸術が有益であるか無益であるかを説いた本は多い。
だが、要不要を考えるならば、
「そういうものとは無関係」なのだろう。
愚痴吐きや癒しはメンタルヘルスに行けばよいし、
物を売りたいだけならば、絵よりパンの方が売れる。
投資で儲けたければ、絵よりは株の方がマシだろう。

ただ1つ、鑑賞者の持つ感性の周波数と、作者のそれがぴたりと一致し
ある片鱗から世界中の色を塗り替えるほどの衝撃と感動とで
頭からつま先まで突き抜ける衝動と共に、魂が揺り動かされる
理由のない涙を流す。
けして揺らがない、揺らぎようのない「真実」を受け取るからだ。

そういった象徴経験を持つ者だけが、
真の充足と真の不足を一度に知り
おそらく生涯、取り憑かれたように本物を求めてしまうのだろう。

永遠はそこにある。
批評は、優劣をつけたり、批判したりする事にあるのではないのは明白だが
できるだけ、再生、再構築のできる感性を養う事も大切だと思う。