少年の心は、日本古来の美意識とは共感しやすいのではないだろうか。
ふと、「東方Project」のキャラクター設定を見ていてそう思った。
なぜなら、反抗期とは、単に大人や親に対しての反抗ではなく、おそらく近代的合理主義に対しての「受け入れ難さ」を示すものではないのかと思うのだ。
明治維新後の合理的な考えは、古い日本の美意識の上に、無理矢理インストールされ、上書きされたOSだ。しかし、どんなに処理しても処理しきれない、消えないファイルが残ってしまう。
高階秀爾さんも指摘している所であり、司馬遼太郎の歴史観とも一致するが、
日本人には日本人から切り離せない独自の美的な視点や物の考え方、感じ方があり、それは我々の生活習慣、伝統行事、建築物として、至るところに残存している。
それが何なのかを理解すればするほど、子供達が社会に出て、従わなくてはならないシステムとは、完全に相容れないものなのではないだろうか。
学校では相変わらず「仲良くしなさい、いじめはダメだ」と先生達は神経をすり減らす。だが、またこうも言う。「頑張りなさい、競いなさい、偏差値は正直だ」
つまり、あなたの友達を敵とみなして戦い、それに勝利した者だけが、システムに迎え入れられる優等生だと。
極端に言えば、より日本人的な非合理性に気付けば気付くほど、ーー繊細であり情的であればあるほど、合理主義に則しているこのシステムからは「排除」されてしまう事になるのではないか。
そして排除されれば何と言われるか。
「ニート」か それとも「社会不適応」か、 それとも「犯罪者」か、「鬱」か。
またフーコーを持ち出すが、精神病というのは精神科医が病名をつけて縛るある種の呪詛なのだ。ボードリヤールもこの点は指摘している。「原始時代には全ての者が狂人ではなかったのか」と。
悪いのを自己責任にしてしまうのは一番短絡的な方法だろう。
システムはそうしてしまう事で、システム自体の歪みを隠蔽してしまえる。そこに見えてくるのは、ただただ薄っぺらい、西洋の真似事でしかない破綻した理念なのだ。
政治家や官僚らが学歴のあるエリートならば、日本人の美意識や考え方を損なわない、日本にマッチした独自のOSを考え出すべきだろう。
日本のように(帝国主義の姿勢でも取らない限り)狭く、資源の乏しい国では、これ以上の発展の可能性を見いだせなくなった場合、急速に元あった「日本ファィル」が、「空気を読む」事で連関し、増殖しはじめる。いつしかそれは、鬱々とした空気を蔓延させる。世界の経済学者が、日本での不景気は他国より長引くのではないかと懸念している理由は、今後日本が、過去の美意識、日本らしさとどう共存していくつもりなのか、その道を見いだすまでは時間がかかるだろうと読んでいるからではないか。
今初めて、日本は世界のテスターとして試されているわけである。自立できるのか、それとも「自立」という観念こそが、西欧的なのかを。
近代的合理主義や、資本主義を中心とした考え方を拒絶すれば、全て「左翼的」という事になる。
コミケの創始者の米澤さんが左翼的で、その基盤を作ったためか、左翼性と日本のサブカルは密接に結びついているのだが、
アニメやマンガを産業としてもり立てようとするならば、ここの一点だけをきいておきたいのだ。
オタク的文化は自立できない若者の「逃げ場」なのか?
それとも、そもそも「逃げる」という観点そのものが、反・近代的合理主義社会なのなら
日本文化とは「自立できない者の逃げ場」にすぎないものであったのかと。
その目の鱗を払いたい。
単に合理的目的の上でなければ成立し得ない西洋的な見地でのみ判断し、それにそわなければ「役立たず」と扱うならば、「情緒」を最高の美だとする日本の美学が、いったい何の役にたつというのだろうか。
もはや何も感じない、冷たい戦いに基づいた発展だけがあればよいはずではないか。ならば、もはやそこにはどんな概念的アートも、あって虚しいだけではないだろうか。
それとも、感情に訴えるようなものは、どんなに人が希っても、低俗な「娯楽」にすぎないとでもいうのだろうか。
日本文化もオタク文化も逃げ場ではない。
人として、自然に持つべきものを、合理主義によって取り上げられていないというだけだ。
そして、それを純粋だと呼ぶのか、ヒキコモリ的だと呼ぶのかは、称する者の文化的な理解度に関わっているのだろう。
ふと、「東方Project」のキャラクター設定を見ていてそう思った。
なぜなら、反抗期とは、単に大人や親に対しての反抗ではなく、おそらく近代的合理主義に対しての「受け入れ難さ」を示すものではないのかと思うのだ。
明治維新後の合理的な考えは、古い日本の美意識の上に、無理矢理インストールされ、上書きされたOSだ。しかし、どんなに処理しても処理しきれない、消えないファイルが残ってしまう。
高階秀爾さんも指摘している所であり、司馬遼太郎の歴史観とも一致するが、
日本人には日本人から切り離せない独自の美的な視点や物の考え方、感じ方があり、それは我々の生活習慣、伝統行事、建築物として、至るところに残存している。
それが何なのかを理解すればするほど、子供達が社会に出て、従わなくてはならないシステムとは、完全に相容れないものなのではないだろうか。
学校では相変わらず「仲良くしなさい、いじめはダメだ」と先生達は神経をすり減らす。だが、またこうも言う。「頑張りなさい、競いなさい、偏差値は正直だ」
つまり、あなたの友達を敵とみなして戦い、それに勝利した者だけが、システムに迎え入れられる優等生だと。
極端に言えば、より日本人的な非合理性に気付けば気付くほど、ーー繊細であり情的であればあるほど、合理主義に則しているこのシステムからは「排除」されてしまう事になるのではないか。
そして排除されれば何と言われるか。
「ニート」か それとも「社会不適応」か、 それとも「犯罪者」か、「鬱」か。
またフーコーを持ち出すが、精神病というのは精神科医が病名をつけて縛るある種の呪詛なのだ。ボードリヤールもこの点は指摘している。「原始時代には全ての者が狂人ではなかったのか」と。
悪いのを自己責任にしてしまうのは一番短絡的な方法だろう。
システムはそうしてしまう事で、システム自体の歪みを隠蔽してしまえる。そこに見えてくるのは、ただただ薄っぺらい、西洋の真似事でしかない破綻した理念なのだ。
政治家や官僚らが学歴のあるエリートならば、日本人の美意識や考え方を損なわない、日本にマッチした独自のOSを考え出すべきだろう。
日本のように(帝国主義の姿勢でも取らない限り)狭く、資源の乏しい国では、これ以上の発展の可能性を見いだせなくなった場合、急速に元あった「日本ファィル」が、「空気を読む」事で連関し、増殖しはじめる。いつしかそれは、鬱々とした空気を蔓延させる。世界の経済学者が、日本での不景気は他国より長引くのではないかと懸念している理由は、今後日本が、過去の美意識、日本らしさとどう共存していくつもりなのか、その道を見いだすまでは時間がかかるだろうと読んでいるからではないか。
今初めて、日本は世界のテスターとして試されているわけである。自立できるのか、それとも「自立」という観念こそが、西欧的なのかを。
近代的合理主義や、資本主義を中心とした考え方を拒絶すれば、全て「左翼的」という事になる。
コミケの創始者の米澤さんが左翼的で、その基盤を作ったためか、左翼性と日本のサブカルは密接に結びついているのだが、
アニメやマンガを産業としてもり立てようとするならば、ここの一点だけをきいておきたいのだ。
オタク的文化は自立できない若者の「逃げ場」なのか?
それとも、そもそも「逃げる」という観点そのものが、反・近代的合理主義社会なのなら
日本文化とは「自立できない者の逃げ場」にすぎないものであったのかと。
その目の鱗を払いたい。
単に合理的目的の上でなければ成立し得ない西洋的な見地でのみ判断し、それにそわなければ「役立たず」と扱うならば、「情緒」を最高の美だとする日本の美学が、いったい何の役にたつというのだろうか。
もはや何も感じない、冷たい戦いに基づいた発展だけがあればよいはずではないか。ならば、もはやそこにはどんな概念的アートも、あって虚しいだけではないだろうか。
それとも、感情に訴えるようなものは、どんなに人が希っても、低俗な「娯楽」にすぎないとでもいうのだろうか。
日本文化もオタク文化も逃げ場ではない。
人として、自然に持つべきものを、合理主義によって取り上げられていないというだけだ。
そして、それを純粋だと呼ぶのか、ヒキコモリ的だと呼ぶのかは、称する者の文化的な理解度に関わっているのだろう。