民主党が「アニメの殿堂」を廃止するという事ですが
無駄な建築物を作って、複製芸術とは何かの理論が確立しないうちに「保存」というのはおかしい話
という考えを以前書きました。

例えばウィリアム・モリスや柳宗悦の言っていたような民衆の藝術として
ポップカルチャー、サブカルチャーの現場を浄化した上で、
閉鎖的ではなく社会的に有用な文化としていくという目的があるのであれば
今後、どちらにせよ、きちんとしたものは必要になってくるだろうとは思います。
ただそれが無駄な「建物」であるべきかというと、どうしても納得はできませんでした。
建物の要・不要を問われたら、不要でしょうが…。

人材は育成しなくても、あまたあるんです。無いのはおそらく椅子の方。
ですから、政治が担うところは、人材育成でなく「登用」。
市場主義に任せていれば、おそらく文化と呼ばれるものは死んでいきます。
かつて藝術だと思い込んで生産されたものを、保存してみたところで
それを見る側、受け取る側の感性が死んでしまえば全く無意味でしょう。

それ以前に、複製芸術と「商品」の問題があります。
仮にそれを殿堂入りにしてしまったら、もう複製されてはいけないという事でしょうか?
著作権の問題も絡みますが、結局ポップカルチャー、すなわち大衆芸術というのは
1つしかないオリジナルが、(例えば現代美術のインスタレーションのように)
そこにその時間に在って、というのでは成立しません。
いつでも、どこでも、多くの人が複製して入手しなければ、「売れる」という事にはならず
この売れるかどうかの数的データに支えられたものこそが、
実はポップカルチャーの正体です。
すでに、良いものであるかどうかは関係なく、必要とされるか否かのニーズを満たした「合い札」
だから、型にはまった「萌え絵」というのは、非個性的ですが最も理にかなっているのです。

文化施設、文化人が今後やらなくてはいけない事は
大衆化と共に失われてしまったものを見極め、取り戻す事です。
日本では無意味な「物」のやりとりこそが芸術だと笑われないために、
芸術本来の目的は何であったか、人にとってどう作用するか、どうあるべきか
問いながら、ポップカルチャーを「大人」に育てる事こそ必要なのではないでしょうか?

他国は芸術家を役立たずの遊び人とはみなしません。
アメリカでは芸術を学ぶ人には、一年間働かなくていい支援金が出されます。
日本ではニートと呼ばれる人らの作品は「スラッカー・アート」と呼ばれ、
ポストモダニズムやダダイズムの色を見せ、
資本主義を絶対視した上での近代的合理主義がもたらす危機を示してみせました。
その同じ精神が、日本ではポップカルチャーの中に取り込まれて発展したのです。
特筆すべき特徴である事は確かです。
 しかし日本では誰がそれを取り上げたでしょうか?
システムにただ迎合する事で保身をはかりたいだけの人達が、
自らの記号化も知らずに、才能をただの係数として台無しにしたのではないでしょうか?
その表現の不自由さが閉塞感や無力感、景気悪化の一因になるとは考えないのでしょうか?

日本で言う表現の自由は、じきにエロ本の規制やパクリの話になるのですが
本来ならば、システムにアンチな姿勢の芸術を評価したり、場を与えたりする事こそが、「表現の自由」として論じられるべきなのではないでしょうか?

漫画やアニメは複製芸術です。
必要なの「場」の整備とは、まず意識改革にあるのでしょう。
国に内容的な指導はされたくはないけれど
麻生さんの考えの全てを否定すべきではないわけです。

施設はリノベーション(テート・モダンみたいに改装した古い建物)でいい。
そして恐れずに、イデオロギーを持つべき時は持つ事も大事で
そろそろ、作者も作品も、もう「死」とは呼ばれない方向を探していかねばならないのではと思います。