「バカの壁」で有名な養老孟司さんは、著書「逆さメガネ」の中で、情報と現実のギャップについて書かれている。
「情報は歳を取らない」。その通りだ。
マンガやアニメ、ゲームの主人公は作者が時を進めない限りは。
サザエさん一家のその後をCMにしたものがあったが、時が進めば「変化」は必ずもたらされる。
その変化が、必ずしも私達にとって良い結果になり得ると誰が言えるだろう?
物語がリアリティを取れば取るほど、近くなるのは「死」であるのではないだろうか。
アニメキャラは歳を取らない。だが、現実の我々は日々、死に向かって時を進めている。
英国の美術批評家ジョン・バージャーは、私達は夕陽を視覚的に見て、情報や知識として「地球は太陽のまわりをまわっている」のだと知っている、と語る。
つまり、見て確かめられる現実と、知識や情報による現実の2つにささえられているのだと。
ナチュラルな我々は、情報とは別な部分で「人生」を歩む。「たいていの人」の定義は曲者であるにせよ。
女性の場合は、学校を卒業すれば就職だけでなく、また、恋愛すれば恋の楽しさだけでなく。
出産できる年齢は限られている。思いたくはなくても、40歳すぎれば妊娠の確率は低くなる。
仮に出産や育児の選択をしなくても、「人生」というナチュラルな時間は、情報とは別な所で確実に流れていくのだ。
さて、そのゴシック的で変化を厭う「繭」だか「殻」だか。
アニメやゲームに逃げ込める時代はよかった。
今もなお、現実に傷ついたり、上手くやっていけない部分の逃避場所として、これといった信仰を持たない人達に居場所を与えるのだろう。
その逃避によって作られた大きなシェルターは、
おそらくはモラルを説けば「上から目線」なのだろうし、誰にも叱られずに放っといてほしい自由さを持つ
「ネバーランド」なのだろうと思う。規制の目が向くのは当然と言えば当然だ。
スキゾとパラノならスキゾ。陰陽ならば陰。
日本人にとっては、近代化精神を植えられる前からあったのだろう性質を持ちながら
その進化しない空間は続くだろう。コミケはコミケとして、今後何年も。
ただ、二次創作で育った世代、コミケを育ててきた世代は、現実的には確実に、ナチュラルな「老い」を、今後初めて、経験していく事になるのではないか。
現実と情報の隔離を感じるのは、逃避だけで解決できない問題に直面した時だろう。
人生は色々ある、というより、何もない方がおかしいのだ。
下手に革新的な事をやろうとしても、排除されかねないのだが。
1つ方法がある。
閉塞してしまった「アート」と「オタクカルチャー」の垣根を無くしていく。
前衛にしろコンテンポラリーにしろ、観客を遠ざけてしまったアートは
たとえ路上のインスタレーションとしても、誰がそれを「受け取り」得るのか。
芸術は、見る側を無視して叫び続ける行為ではない。なかったはずだ。
逆に、二次創作などで、受け取る側やジャンルにふりまわされ、主体を失ってしまいがちな作者はどうすべきか。
表現とは、本来は意思から始まるゆえに(商売とは無関係の)純粋で、かなり知的な活動であったという事、つまり芸術至上主義を、少しは学ぶべきだろう。
時間は流れていく。その現実の中で、あいもかわらぬ逃避を続ける、やがてそのまま死んで行く
それももちろん悪いことではないのだが
芸術家といわないまでも、創り手には「力」がある。
世の中を作っていく力、関係を変えていく力、困難を打破する力。
私はそのエネルギーを信じていたいのだ。
そういった力を信じるか信じないかが、芸術の有益性と深く関わっているのは言うまでもない。
もしその有益性を信じるならば。
サブカルが芸術至上主義の持つ純粋性を失わないで
なおかつ象牙の塔に入らないでいる姿勢は、重要なのだろう。
その鍵は、実はもうオタクが手にしている。
やりにくい事であってはならない。
だが、素晴らしい事は模倣しよう。
二次創作がアートとして認められるためには、PRBの活動のように
作品から得られる、純粋な感動に立ち戻るべきなのだ。
くだらない仕掛けに便乗して、借り物の光にちやほやされて、寂しさから数を求めるべきではない。
どんなにレディメイドであっても
それが表現であると堂々と言える、誇を持とうではないかと思うのだ。
二次創作には、やり残された事がある。
その質と価値の評価。
芥川もPRBにも「元ネタ」はあったのだ。
ただ、ヤツ等は表現に対して芸術至上主義的であった事は、忘れてはならないだろう。
市場競争における「ウィンブルドン現象」のようなものを許さずに
買い手もきちんとした態度で、萌えキャラの向こうにある「作り手」と会話してほしいと思うのだが。
「情報は歳を取らない」。その通りだ。
マンガやアニメ、ゲームの主人公は作者が時を進めない限りは。
サザエさん一家のその後をCMにしたものがあったが、時が進めば「変化」は必ずもたらされる。
その変化が、必ずしも私達にとって良い結果になり得ると誰が言えるだろう?
物語がリアリティを取れば取るほど、近くなるのは「死」であるのではないだろうか。
アニメキャラは歳を取らない。だが、現実の我々は日々、死に向かって時を進めている。
英国の美術批評家ジョン・バージャーは、私達は夕陽を視覚的に見て、情報や知識として「地球は太陽のまわりをまわっている」のだと知っている、と語る。
つまり、見て確かめられる現実と、知識や情報による現実の2つにささえられているのだと。
ナチュラルな我々は、情報とは別な部分で「人生」を歩む。「たいていの人」の定義は曲者であるにせよ。
女性の場合は、学校を卒業すれば就職だけでなく、また、恋愛すれば恋の楽しさだけでなく。
出産できる年齢は限られている。思いたくはなくても、40歳すぎれば妊娠の確率は低くなる。
仮に出産や育児の選択をしなくても、「人生」というナチュラルな時間は、情報とは別な所で確実に流れていくのだ。
さて、そのゴシック的で変化を厭う「繭」だか「殻」だか。
アニメやゲームに逃げ込める時代はよかった。
今もなお、現実に傷ついたり、上手くやっていけない部分の逃避場所として、これといった信仰を持たない人達に居場所を与えるのだろう。
その逃避によって作られた大きなシェルターは、
おそらくはモラルを説けば「上から目線」なのだろうし、誰にも叱られずに放っといてほしい自由さを持つ
「ネバーランド」なのだろうと思う。規制の目が向くのは当然と言えば当然だ。
スキゾとパラノならスキゾ。陰陽ならば陰。
日本人にとっては、近代化精神を植えられる前からあったのだろう性質を持ちながら
その進化しない空間は続くだろう。コミケはコミケとして、今後何年も。
ただ、二次創作で育った世代、コミケを育ててきた世代は、現実的には確実に、ナチュラルな「老い」を、今後初めて、経験していく事になるのではないか。
現実と情報の隔離を感じるのは、逃避だけで解決できない問題に直面した時だろう。
人生は色々ある、というより、何もない方がおかしいのだ。
下手に革新的な事をやろうとしても、排除されかねないのだが。
1つ方法がある。
閉塞してしまった「アート」と「オタクカルチャー」の垣根を無くしていく。
前衛にしろコンテンポラリーにしろ、観客を遠ざけてしまったアートは
たとえ路上のインスタレーションとしても、誰がそれを「受け取り」得るのか。
芸術は、見る側を無視して叫び続ける行為ではない。なかったはずだ。
逆に、二次創作などで、受け取る側やジャンルにふりまわされ、主体を失ってしまいがちな作者はどうすべきか。
表現とは、本来は意思から始まるゆえに(商売とは無関係の)純粋で、かなり知的な活動であったという事、つまり芸術至上主義を、少しは学ぶべきだろう。
時間は流れていく。その現実の中で、あいもかわらぬ逃避を続ける、やがてそのまま死んで行く
それももちろん悪いことではないのだが
芸術家といわないまでも、創り手には「力」がある。
世の中を作っていく力、関係を変えていく力、困難を打破する力。
私はそのエネルギーを信じていたいのだ。
そういった力を信じるか信じないかが、芸術の有益性と深く関わっているのは言うまでもない。
もしその有益性を信じるならば。
サブカルが芸術至上主義の持つ純粋性を失わないで
なおかつ象牙の塔に入らないでいる姿勢は、重要なのだろう。
その鍵は、実はもうオタクが手にしている。
やりにくい事であってはならない。
だが、素晴らしい事は模倣しよう。
二次創作がアートとして認められるためには、PRBの活動のように
作品から得られる、純粋な感動に立ち戻るべきなのだ。
くだらない仕掛けに便乗して、借り物の光にちやほやされて、寂しさから数を求めるべきではない。
どんなにレディメイドであっても
それが表現であると堂々と言える、誇を持とうではないかと思うのだ。
二次創作には、やり残された事がある。
その質と価値の評価。
芥川もPRBにも「元ネタ」はあったのだ。
ただ、ヤツ等は表現に対して芸術至上主義的であった事は、忘れてはならないだろう。
市場競争における「ウィンブルドン現象」のようなものを許さずに
買い手もきちんとした態度で、萌えキャラの向こうにある「作り手」と会話してほしいと思うのだが。