千住博+野地秋嘉「ニューヨーク美術案内」を読んだ。

この中にデミアン・ハーストについてが出てくるのだけど
ハーストというと、あのサメのホルマリン漬けとか胎内の見える妊婦とか遺体
命を物のように扱ってるのでアモラルと批難される事の多いあれ…
でも売れるんだからしょうがない。

二人はデミアン・ハーストの何がいいのかわからないし、共感できないようだった。
だけどなんとか、わかろう、わかろうとしている。
ハーストと私は同世代。
その同世代としての空気はなんとなくわかる。

結局は私達は物体じゃないか?
ハーストの真意はわかりかねるけれど、ハーストが嫌いな人は
多分、そう思いたくないのだ。
どうせいつかは遺体になり、どうせ分解すればただの物質であり
私達が幻想を抱く、愛も心も
結局は脳の働きにすぎず、それ以上でもそれ以下でもない。
明確な、数式のような回答だと思う。
もし野地さんが、本に書いているように「うら寂しい」というのなら
それはおそらく、言葉を交わしたく思うのに、どうせ無駄だと口をつぐんで去って行くような
そんな感覚があるからだと思う。

道徳的に善いか悪いかはおいといて。

日本人の「わび・さび」にも似たものはあるが、禅の持つ達観とハーストのそれはあきらかに違う。
どこが違うか。

例えば、武蔵の水墨画から受け取れるものは、明確な悟性だ。
例えば、ゴーギャンもまた、命はどこからきてどこへ行くのかを問うた人だと思う。
しかし、ハーストから受け取れる気まずさのようなものは感じられない。
曼荼羅は理論だ。私達の世界はこうであると、地図にして示している。
だが、ハーストのそれは、理論ではない。結局は「あきらめ」なのではないだろうか。

どんなふうに生きても、結局は物質だ
それはそれでいい。だが、ハーストはもしかしたら、そうであってはイヤなのではないだろうか?
なんという甘えたツンデレ。
「売れる」という事と作品の評価は、イコールされてはいない。
有名なハーストの作品であるというブランド信仰、最先端であるという見栄
そして芸能人のショッキングなニュースを祭りにするような愚かさ。

日本人なら、わかるはずなのだ。
ハーストは甘えた赤ん坊の域を出ていないと。
頭で、わかろうとすればそれはわかるだろう。
だがしかし、美術の価値はドラッグの幻想とは違う。
本物は逃げない。こそこそと隠れたり甘えたりはしない。
諦観と達観は違うのだ。

嫌いだって言っちゃえ。

おそらく時代は、もうただショッキングであれば美術であれた時代を塗り替えていくだろう。
言葉は交わされなくてはならないのだ。