日本のポップカルチャーを世界へ、産業へ
それが自発的に海を超えて、ごく自発的なレベルでの国際交流があるなら素晴らしいし
浮世絵がかつて世界を震撼させたように、今度はオタク文化が…という期待ももちろんある。
少し複雑な思いと共に。

複雑、というのは、グリーンバーグの評論を読むまでは抱いていなかった。
ゴスロリも同人誌もとても身近なもので、否定的な意見は今まで抱いた事がない。
腐女子だし、そのオタクの常識は、その中にいる事によって全く、何の疑問も抱いてなかった。
グリーンバーグと前衛については、耳が痛い話、すでに前世紀の古い話、そんなかんじだった。

昨日「東京カワイイTV」を見ていた。
海外で流行しはじめているというゴスロリファッションだけども
MALICE MIZERのライブの頃の事を思うと、「今更」と思ってしまうのは何故だろう?
あれから10年以上経過している。
10年もたいして変化しないものを「新しい」などとは言わないし、
すでにMANA様がおやりになっていたようなもののパクリを「これは自己主張です」と言えるのかどうか。
セーラー服のカラーがピンクのものも、セーラームーンブームからすれば「今更」なのだろうし。
つまり、カワイイを文化として発信したり産業に利用するのはかまわないのだが
アートのレベルから見たら、勘違いを犯しているのは確かだ。(先の理論を肯定した場合のみだが)

すでに何の真新しさも無い、決められた、自由度の低い、
ステレオタイプでキャラ化したものを「自分のスタイル」とすんなり言えてしまうその安易さ。
その安易さと「それっぽければ良い」を許してしまう土壌。
オタクは甘えの構造に支えられたビッグサイトで、変化を厭いながらなんとなく群れては
荒波にさらされない共同体としてのマッタリ感の中で、
定着したい「型」/オブジェを求めてさまようだけの霊のようなもの…だとしたら?
各自が表現だと信じて疑わないものを、一度否定しても、それは表現であり得るのかどうかという事だ。

グリーンバーグの批評を読みながら、前衛のクーニングやポロックが
誰にも支持も理解も(本当に全くもって)されないのに、自分であろうとしたアートから見れば
それは「お約束」だらけの世界であり、
ある意味、オタク様式とも言える類型のおかげで、オタクはどこまでも創り手を甘やかし
そして、本当の意味で創造性を持つ者を殺していっているのではないだろうか?
と、そんな疑問が最近、湧いて来てしょうがない。

それまでは何の疑問も持たなかった、ジャンルのカップリングから
オリジナルをやるにしても「わかりやすく」するために記号化された眼鏡キャラやツンデレ。
その「型」の中を抜いて、自分の居場所を確認する、繭から出れないままの希薄な繋がりを
アートであると疑わずに発信する分はいいのだが。

日本文化としてのオタク文化を海外に示すには、まず日本の文化、能や俳句日本画といったものが
どうして「型」を先に取るのか、日本人にとっての「個」の表現とは何なのかを示していく必要があるのではないだろうか。

またそれは同時に、戦後アメリカンナイズされて育った親やその子の世代でも生き残った
日本人の感性とは何かを、グローバル化の中であらためて再確認する時期に来ているという事なのではないだろうか。
既製と複製の価値についても必要だ。
オリジナリティとは何か。また、一度真のオリジナリティなどは存在しないのだ、結局は情報と再構築にすぎないとした上で
あらためて問われる「個」の質。
そこを示すために最も重要になるものが、スノビズムやシニシズムに由来する
ただリア充アンチの逃げ場でしかないものだと思うなら、またそれでよいのなら

私は広める必要はないし、文化だと言う資格はないし、産業としての支援は
世界に公認ドラッグを売りさばく行為と何らかわりないのではないかとすら思えるのだ。


カワイイの発信者には、型だけのオタク文化ではなく、その意義を確認しておいてほしい。
そうしなければ、それはただの真似事、ごっこ遊びの延長を、ブームと共にさんざん利用されて終了するだけだろう。