画家を知っている。
本当に良いと信じたものを目指すが、殆ど食べていけず、仕事をしつつ、
それでも一枚の絵に全霊をかたむけ、描かずにはおれない、前衛の画家が友人にいる。
彼は数年前の自動車の事故で足が不自由になった。障害者に認定されている。

その一方で、私は知っている。
わずか何分かで鉛筆で描いた同人誌の、それもきちんとした作品でなく「ペーパー」と呼ばれるものが
人気サークルであるという理由で奪いあうように手渡され、
オークションで一枚五千円の値がついていた事を。

何が正しい価値を持つのかについて、虚しさを覚えてはいけないのだろうか。
それとも、どうせ言葉など、大量消費社会では伝わらないものだと諦めて
口をつぐむべきなのか。

アニメの殿堂について、賛成だという漫画家さんは、
劣化する原稿を保管する施設は必要だと主張しておられるようだ。
ならば、私達は問わなくてはならない。
漫画は、そオリジナル原稿にこそ価値があり、他の絵画と同様、複製は無意味、無価値だったのかと。
その独自性こそが、作品の持つ真実であり、市場に多量にばらまかれた
偉い先生のベストセラーコミックは、すべて「嘘」「まがいもの」だったのかと。

油絵からアクション・ペインティングに至るまで、絵画のそれは
複製を許してはならないものだと思う。
複製を許すならば、画家は最初から、複製されるのを考慮して描いたはずだ。
その、たかが一枚、されど一枚しか生まれ得ない絵画と、いかに戦い、
いかにして展覧会やアートフェアに出すかを考えたらわかるはずだ。

他方に、複製され続けなければ無価値なものがある。
それは「絵画」ではなく、「文芸」と呼ばれるものだ。
書物は、伝えるためには広く人の手に渡らなければいけない宿命を持っている。
時間をかけて「読解」されるために。美術館に小説全巻を「展示」するわけにはいかない。
もし、文芸も一点物であり、原稿にこそ価値があるのだ、どこかの施設で未来永劫保管してほしいと主張したければ
今後どんな作家もワープロでテキストなんか打ってはならなくなる。
手で、書家のような書体で、「見せる」文字で綴るべきだ。

漫画の原稿自体に価値があるのだと主張する考え方は、矛盾している上に時代遅れも甚だしいのだ。
ホワイトの修正やトーンの貼り方、紙に対するペンのかすれを見てほしいというのなら
すでに原稿をフルデジタル化している世代は、永遠に「アニメの殿堂」とは無縁になるだろう。
どうしても原稿を保管したければ、何億も使わず、しかるべき場所での保管方法を学べばそれでよい事ではないだろうか。

勘違いしてはいけない。そして、けして混同してはいけない。
複製芸術は複製される事と複製品に価値があるのだ。
公立の美術館への経費が削減されつづけ、本来保管されるべき一点物の市場も混迷している今
どうしてそんな無駄なものに税金を使うのか。全くもって理解に苦しむ。
「アート」ですら、美術館に入るのを拒むような時代に。

箱なんか無くても、本当に素晴らしい作品は海外でも評価されるし
愛されつづけるものだ。
海外は日本のマンガやアニメの地位を低くみているのではない。
若手の育成ならアニメーション学院や大学を支援すればいい。
箱ものは自己満足だ。


もし、施設の必然性を言うならば
今後いっさいの作品は国のために作られるべきなのか
国が規制するような内容のものは「素晴らしい作品」に入らないのか
芸術として評価されたいと望むなら、芸術は何であって目的は何であるべきなのか
日本人としての考え方を、漠然とではなく明確に世界に回答できなければならないだろう。