コミケの市場はゴシック的だ。
「ルネサンス」の著者会田雄次氏は、その著書にこう書いている。
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閉鎖的な自給自足の単位社会相互間に行われる通商は

1. 商品が奢侈(しゃし)、軽量品
2.取引量は僅少
3.輸送に困難と危険が伴う
4.取引は常時的でない

商品の利潤はこの性格に依存する
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もちろん、今日の事だ。3の輸送についてはクロネコヤマトにでも頼めばOKだろう。
それでもリスクは皆無とはいえない。
沖縄や北海道などの地方に住む者は?
イベントはメジャージャンルこそ頻繁だが、それでも自分の傾向と照らし合わせたら
そんなには無いし、もちろん書店売りのように「毎日」とは限らない。

書店委託はいいが、書店が取らないジャンルのものもある。
ニーズの乏しい本は売れない。

更に、ゴシック期の経済活動は投機性が強く、偶然性に支配される事が多かった。
同人誌もまた、投機性は強いのだ。
どうして、「腐女子向け二次創作はジャンルが全て」とまで言われるようになったのか。
どうして「部数が出ない」事を「敗北」というようになったのか。

二次創作において自分の作品が、本当に主体と共に受け入れられているのか
それとも単に、市場ニーズにのっかって、ミーハー的な金銭のやりとりをしているだけなのか
もし、本当に自分の表現を持った者であれば、他人のフンドシで相撲を取る事には耐えられないはずだ。
例えば、アンフォルメルのようなもののレベルに達してまで、個性や主体性を持てとは言わないが
「型」は行き着く所、あのマレーヴィチの、白い正方形を出る事は無いだろう。
正方形は正方形、誰が見てもそうではあろうが
そこにはすでに、生きた「私」はいないはずだ。

ゴシック期の次にやってきた「ルネサンス」と、その合理精神が広く、自由なものとして受け入れられたのは、とてもあっけらかんとしてお人好しな、関西商人のような明るさを持っていたからだ。
良いものを多く創り、たくさんの人に受け入れられれば、多くの人が豊かになれる
というような。

ところが、今日の、特に日本でのポストモダン社会では
「ニーズ」は主体性を持たなかった。
二次創作の作者の中で、自分の言葉を持つ者ほど、
パロディで多量に売れるより、オリジナルが1点売れる事を喜ぶのではないだろうか?
自分の実力で売れているのか、それとも全てはジャンルの力なのか
「私」がやらなくても誰でもいいのだ、という虚無的な考え方は
儲かっているうちはマネーゲームに没頭できるが、そうでなくなるやどこまでも存在価値は揺らぐ。
他ならぬ「私」が描く意義が根底から揺らぐのだ。

西洋では、欲しいものも良いものも、自立した、自分だけの価値判断で決める事ができただろう。
しかし、日本人の付和雷同的な性格、多くの者に流され、自分の考えを放棄してしまう国民性は
「ニーズ」とは、「中身を確認しなくても、多くの人が買うからきっと良いものだ」
という魔法に、支配されてしまうようになった。

創り手は常にニーズを求める。売買である限り仕方ない。
しかし、そのニーズが、本当に確かなものなのかを、我々はどうやって確かめたらよいのだろう?

特に、同人誌マーケットは、あくまで「創作物」をやりとりしている。
これが大根や人参だったらまだマシだったのかもしれない。
最も手痛い間違いは、多くの者が、そこで売られるキレイな外箱にいれられた恣意を
言葉であり、表現なのだと勘違いしてしまった事だろう。

西洋の合理的な精神ではなく、根拠の無い非合理性で連なる事のできる日本人が
中世のような運・不運による評価のみと、投機とリスク、市場ニーズ主義を繰り返していれば
無気力感が支配するのは当然の事なのだ。
努力と、それに対する評価は全く無関係と知った時、虚無感はやってくる。
多くの者は鬱になる。

誰か、どの世代かを犯人に仕立ててそのせいだと責任を問うのはあまり好きではないし
巨大化したマーケットは、今更どうにもなりはしないという事を誰もが知っている。

ならば、市場を意義のあるものにするには方法は1つしかないのだ。
あっけらかんと、関西商人のように腹を割って「話し合う」
話し合うには、言葉が不在ではいけない。
そして、描き手(書き手)の言葉とは、他ならぬ作品の事だろう。
その人にしか話す事のできない主体そのものである。

より真摯な言葉を持つ事は、市場にルネサンスのような合理性と活気をもたらす。
それは、まず自分の言葉をまず、信じる事からはじまる。

その人の本は何なのか。
その人の存在は何なのか。
コミケはコミュニケーションであるという米沢さんの言葉を、忘れてはならないのだろう。