私は、ギャグの多様なバリエーションの膨張機ともいえる80年代の文化と育った。
ナンセンスといえば赤塚不二夫先生、なのだろうが
80年代、バブル経済前までの時期に、単なるシャレやノリでやってもウケる状態で描かれたものよりかは
かなり意味を含んでいると思う。

ひみつの「アッコちゃん」を読む。
アッコちゃんが変身するのは、身近な人が殆どだと気づく。
先生、友達、おじいちゃん…
そしてそこで何かやらかす度に、周囲の助力になれてよかったと思う自分と
ああ、あんな目にあうならこりごりだ、やっぱり自分は自分でいいやと思うのだ。

そして、どんなに変身しても中身は彼女なわけで
天使になっても性格はそのまま。
自分が自分である事は、魔法でも変える事はできないが
自分が何かできるという事こそ、この世で最大の魔法なのだと
それが、赤塚不二夫が漫画の中でくれるメッセージだと思う。

さて時代は。
戦後の復興から、そのルネサンスのような自分らしさと共に、経済的な成長を遂げた後は
「閉塞感」という言葉で片付けられて長い、どこかゴシック的な雰囲気が漂って久しい。
最も失われたものは、経済的な損失の部分より
他者に対するモラルや、人に対する尊厳である
というような事は、あちこちで偉い批評家も言っているところだ。

漫画においては、多様な絵柄が受け入れられた時代は、経済的にも精神的にも受け入れるキャパのあった時代だった。
新しいものがもう出来ないのではない。
飽和した情報は整理のためにカテゴリと分類を選ぶ。
ソートされた情報からだけ、人は新しいものを得ようとする。
そうすると、分類不能なものは見落とされやすくなる。
分類されるためにはどうするか。まずもって、類型を先に選択させられる。
想像力はもっと自由なものであったとしてもだ。

もし、今の時代にひみつのアッコちゃんがいたらどうなるだろうか。
周囲とのかかわり合いが希薄になった現代で。
なごやかさとは遠く、戦場のようなストレスを抱える学校や会社で
アッコちゃんは誰に変身するというのだろう?

もはや現実社会の誰にもなる事は望まず、
ただコスプレのように非現実的な服と非現実的な性格と口調で
情報によって作られた「自己」を演出するにすぎないのではないだろうか、と思うのだ。
はたして、そこにアッコちゃん自身は
揺るぎなく存在できるのかどうか。

誰もが自分らしさを持ちたいと思いつつも合理的にソートされなければならず
無くなったはずの階級に分けられていく。
その諦観もピークに達した時、もしかしたら
「変身しても元に戻らない」
ラミパスの呪文無しのアッコちゃんになってしまう気がしてならない。

赤塚先生ならばどうギャグに描いたのか、読めないのが残念。