ようやく出ました、ガラスの仮面43卷。
絵柄が古いのどうのという問題は、別に今はじまったわけではありません。
手塚治虫先生も、大友克洋が出てきた頃に、「僕の絵柄はもう古い」と悩んでいたようです。
しかし、実は絵柄の古さをやたら指摘したり気にしたりするのは、
商売としてマンガを「経営」している側や、やたらマンガ好きなマンガファン、オタクだけなのかもしれません。
実際に一般的な人(特別にマンガ好きというものでもない人)は、マンガの絵柄よりもストーリー重視。余程絵柄が変でなければ、面白ければ読むといったかんじなのではないでしょうか。
70~80年代、まだ少女漫画が漫画家の名前を1つのブランドにして売っていた時代は、とにかく個性がある事は必須でした。
しかし、90年代以降、漫画というよりはオタク文化としてのコミックがメインになるにつれ
絵柄はテンプレート化していきました。
何故なら、やはり同人誌の即売会などですと、どうしても短時間で手に取ってもらわなければならないわけです。頭にあらかじめインプットされた絵柄から、いち早くジャンルやカテゴリーを分類し、内容を類推して買うという行動は、とても合理的です。
また、同じ絵柄である事と、同じ空気である事は、仲間的安心感をもたらします。
それが、バブル崩壊後の不景気や、対人関係の希薄化、パソコンの普及に伴う情報化などと相まって、特にオタク文化の中では、個性的すぎる絵柄は市場からリダクションされていくようになりました。
二次創作のジャンルでは顕著です。
(特徴を捉えやすい、背景がトーンでOKなど、パロディが描きやすいジャンルに人が流れるという現象もあります)
こういう類型化は、合理的ですが実はやがて、閉塞感や虚無感をもたらし、市場の活力を衰退させてしまうのではないか、と私は見ています。
エネルギーを支えるものは個性だし、自分というものの存在を認められ、発揮できる所に閉塞感などあるわけがない。誰でもいいなら自分なんか不要と思えば、想像力は失われます。
(美術史から見ても明らかです)
さて、ガラスの仮面。
内容は言うまでもないのですが、とにかくその演出、カット割、構図の上手さに学ぶ所がたくさんあります。
絵柄の上手さからいけば、最近の若い描き手さんの方が上手くなっています。
なにしろデジタルを駆使して、拡大修正もできますから。
もちろん、マンガ専門学校で学んだ人が描いたりもしているし、不景気をかきわけてきた描き手が
上手すぎるほど上手いのもわかります。
でも、私には「亜弓さん的」に思えます。
マンガには多分、「見せる」ではなく「読ませる」
いや、「魅せる」が必要なのでしょう。
姫川亜弓さんは、マヤちゃんより技術的にはかなり上手く、裕福で美人です。
申し分無い彼女ですが、完璧すぎるせいなのか、恋をしません。
月影先生に指摘されて無理矢理、ジミ男くんとつきあって? みたりしてましたが
演技の肥やしでした。
人は形の美しさには感心します。
しかし、それは感心であって、「感動」にまで結びつけていくには、
中身が無いとダメなのでしょう。
中身とは何か、それは語るまでもなく、感情です。
露骨なまでの感情です。
マヤちゃんは時に凹み、ヤケクソになり、しかしまた自信を取り戻し、上手くいってるなと思うといきなり恋愛にうつつを抜かします。
もし、オシャレにそこそこのつきあいで、そこそこに華麗に舞台もこなしていたら、
こんなにも読んではいないでしょう。
43卷には、作者のこだわりを見せるセリフが、舞台演出家黒沼先生の言葉になって出ています。
世の中には現実と違う、現実はどうのこうの、というツッコミを入れて、批評家を気取る人もいるでしょう。あるいは、今風の絵柄でないという事を突っ込む人もいるでしょう。
しかしあえていえば、私達が芸術ーーとはいかなくても、「作品」に何を求めるか。
それは、世間体ではない事だけは確かです。
世間一般では盲目になってしまう事、言えない事、言っても虚しいと感じている事を、お話の中では貫き通す、それこそエンターテインメントであり、それこそ人の心の癒しとなる部分ではないでしょうか。
舞台と同じように、漫画、ドラマって所詮、嘘なんです。
しかしその虚構の中には、こちらの世界がすぐに失ってしまう夢や正義や愛があるのです。
たとえ主人公が悪魔だろうが泥棒だろうが。
おそらく、読者が1番やってはいけない事は、
ノンフィクションとフィクション、現実と非現実をごっちゃにして批判する事でしょう。
人間的である事。
魅せるテクニックとは、実は型をなぞる事ではなく、どこまでも人間臭く、己らしくあってはじめて出てくるものなのではないでしょうか。
先に素直さありきです。
その人間らしさは、時に非常に不器用である部分に現れます。
リスクを拒み、型だけが良ければそこそこに評価はされる
こんな時代ですから、そういうものの方が都合はいいでしょう。
しかし、現実の中であってはもどかしい不器用さも、非現実の中では生きてくる。
その魅せ方の上手さ。
マヤちゃんが月影先生に学ぶように、私も一生、マヤちゃんには学ぶだろうな。
完結を待つ気もる反面、ずっと学んでいたい気もします。
絵柄が古いのどうのという問題は、別に今はじまったわけではありません。
手塚治虫先生も、大友克洋が出てきた頃に、「僕の絵柄はもう古い」と悩んでいたようです。
しかし、実は絵柄の古さをやたら指摘したり気にしたりするのは、
商売としてマンガを「経営」している側や、やたらマンガ好きなマンガファン、オタクだけなのかもしれません。
実際に一般的な人(特別にマンガ好きというものでもない人)は、マンガの絵柄よりもストーリー重視。余程絵柄が変でなければ、面白ければ読むといったかんじなのではないでしょうか。
70~80年代、まだ少女漫画が漫画家の名前を1つのブランドにして売っていた時代は、とにかく個性がある事は必須でした。
しかし、90年代以降、漫画というよりはオタク文化としてのコミックがメインになるにつれ
絵柄はテンプレート化していきました。
何故なら、やはり同人誌の即売会などですと、どうしても短時間で手に取ってもらわなければならないわけです。頭にあらかじめインプットされた絵柄から、いち早くジャンルやカテゴリーを分類し、内容を類推して買うという行動は、とても合理的です。
また、同じ絵柄である事と、同じ空気である事は、仲間的安心感をもたらします。
それが、バブル崩壊後の不景気や、対人関係の希薄化、パソコンの普及に伴う情報化などと相まって、特にオタク文化の中では、個性的すぎる絵柄は市場からリダクションされていくようになりました。
二次創作のジャンルでは顕著です。
(特徴を捉えやすい、背景がトーンでOKなど、パロディが描きやすいジャンルに人が流れるという現象もあります)
こういう類型化は、合理的ですが実はやがて、閉塞感や虚無感をもたらし、市場の活力を衰退させてしまうのではないか、と私は見ています。
エネルギーを支えるものは個性だし、自分というものの存在を認められ、発揮できる所に閉塞感などあるわけがない。誰でもいいなら自分なんか不要と思えば、想像力は失われます。
(美術史から見ても明らかです)
さて、ガラスの仮面。
内容は言うまでもないのですが、とにかくその演出、カット割、構図の上手さに学ぶ所がたくさんあります。
絵柄の上手さからいけば、最近の若い描き手さんの方が上手くなっています。
なにしろデジタルを駆使して、拡大修正もできますから。
もちろん、マンガ専門学校で学んだ人が描いたりもしているし、不景気をかきわけてきた描き手が
上手すぎるほど上手いのもわかります。
でも、私には「亜弓さん的」に思えます。
マンガには多分、「見せる」ではなく「読ませる」
いや、「魅せる」が必要なのでしょう。
姫川亜弓さんは、マヤちゃんより技術的にはかなり上手く、裕福で美人です。
申し分無い彼女ですが、完璧すぎるせいなのか、恋をしません。
月影先生に指摘されて無理矢理、ジミ男くんとつきあって? みたりしてましたが
演技の肥やしでした。
人は形の美しさには感心します。
しかし、それは感心であって、「感動」にまで結びつけていくには、
中身が無いとダメなのでしょう。
中身とは何か、それは語るまでもなく、感情です。
露骨なまでの感情です。
マヤちゃんは時に凹み、ヤケクソになり、しかしまた自信を取り戻し、上手くいってるなと思うといきなり恋愛にうつつを抜かします。
もし、オシャレにそこそこのつきあいで、そこそこに華麗に舞台もこなしていたら、
こんなにも読んではいないでしょう。
43卷には、作者のこだわりを見せるセリフが、舞台演出家黒沼先生の言葉になって出ています。
世の中には現実と違う、現実はどうのこうの、というツッコミを入れて、批評家を気取る人もいるでしょう。あるいは、今風の絵柄でないという事を突っ込む人もいるでしょう。
しかしあえていえば、私達が芸術ーーとはいかなくても、「作品」に何を求めるか。
それは、世間体ではない事だけは確かです。
世間一般では盲目になってしまう事、言えない事、言っても虚しいと感じている事を、お話の中では貫き通す、それこそエンターテインメントであり、それこそ人の心の癒しとなる部分ではないでしょうか。
舞台と同じように、漫画、ドラマって所詮、嘘なんです。
しかしその虚構の中には、こちらの世界がすぐに失ってしまう夢や正義や愛があるのです。
たとえ主人公が悪魔だろうが泥棒だろうが。
おそらく、読者が1番やってはいけない事は、
ノンフィクションとフィクション、現実と非現実をごっちゃにして批判する事でしょう。
人間的である事。
魅せるテクニックとは、実は型をなぞる事ではなく、どこまでも人間臭く、己らしくあってはじめて出てくるものなのではないでしょうか。
先に素直さありきです。
その人間らしさは、時に非常に不器用である部分に現れます。
リスクを拒み、型だけが良ければそこそこに評価はされる
こんな時代ですから、そういうものの方が都合はいいでしょう。
しかし、現実の中であってはもどかしい不器用さも、非現実の中では生きてくる。
その魅せ方の上手さ。
マヤちゃんが月影先生に学ぶように、私も一生、マヤちゃんには学ぶだろうな。
完結を待つ気もる反面、ずっと学んでいたい気もします。