二次創作というと、原作がまずあって…というパロディの世界だが
別に諧謔性に富んだものだけが二次創作ではないというのはご承知の通り。
ロマン派からイギリス絵画PRBへの流れはそうだし
夏目漱石や芥川龍之介らの、原書から話を膨らませて書いた小説もそうだろうし
まるでその人物の性格が公式設定のようになってしまったものもある。
新選組関係の作品なんかはその代表かもしれない。

その、「二次創作」には、「ここは外したら違うだろう」という既定ラインがある。
作者の個性で流されてしまわない、アトリビュートとも言える部分である。
キャラクター売りの世界では、まずそういう公式設定が先行する事もある。

公式設定といえば、こんな話がある。

宗教画の聖母マリアはその「公式設定」として赤と青の衣装をまとっているのだが
PRBの画家ロゼッティは、その「受胎告知」を描く時、白の衣装を着せた。
「エクシ・アンシラ・ドミニ」

たのしい21世紀芸術-エクシ・アンシラ・ドミニ

「これのどこが聖母マリアだ」
と、当時の批評家達はボロクソにけなした。

しかし、画家ロゼッティの目的はまさに、そこにあった。
ルネッサンス以降、それさえあれば聖母、受胎告知というアイテムをわざと外したのだ。
この絵には妊娠を知ってただ茫然とする、運命を受け入れるしかない1人の「女」がいる。
お決まりの、受胎を告げられて感激している神々しい姿は無い。
静かに神聖に知るのでなく、不安と苦悩を携えて、自分ではどうしようもない運命を「抱える」のだ。
しかも、百合を手渡している天使ガブリエルの背中には羽根が無い。
神々しい光は部屋のランプに置き換えられている。
そこにむしろ、聖人の母となる女性の、絵空事で終わらないリアルさを感じてしまうのだがどうだろう。
しかし、ロゼッティが批評家の言う通り全くハズしているかというとそうでもない。
神聖さは基調となる白で表現され、マリアがまとうべき青と赤は、計算して画面に配置されている。
絵画が、意味として読まれるものから、象徴として受け取られるものに一歩踏み出しているのがわかる。

ルネッサンスの初期、香油壷を持っていないマグダラのマリアを作ったドナテルロもそうだった。
しかし彼は言ったのだ。「そんな子供じみたものをやる気はない」

天才は自由にやりたがる。
批評家面した者だけが、描かれた真意よりも既存のルールを重視する。
今日、それらの批評が何の役にも立たない事など明白だろう。

公式設定があれば、誰にもわかりやすい共通事項として
作品の理解には役立つだろう。
しかし、行き過ぎてルールが想像力を束縛するようになると
そこにはもはや、大衆へのサービス精神しか存在しなくなるのではないか。
芸術家がモチーフをどう捉え、どう解釈し、どう表現するか。

赤と青を着た女の人ならかまわない
もしそうであれば、思想や信仰など無くても描けるのだ。