こんなものが描きたい、創りたいと思っていても、
自分の中の自分がダメ出しする。
創作という行為はどこまでも自由であるべきはずなのに、様々な制約と批評眼のために身動きが取れなくなる。
創ってみれば、それはそれで完結するのだろう。(評価がどうあれ)
しかし、世は不景気だ。
何のために創作するかが、お金のためであったとしたら尚更だ。
「こんなものでいいのか」は限りなく増えていく。
ニーズはどうだ、描いても自画自賛、自己完結のひとりよがりにすぎないのではないか?
だいたいこんなのありえない。リアルじゃなかろう
世代ニーズに合ってない。ならばそもそも世代ニーズとは何だ?
酷評されて売り上げに関わってくるなら、無難なものしかできないが
売れ筋を考えたら、やりたいものよりポルノでしょ…
と、尽きないものだ。
フーコーが「監視と処罰」の中で取り上げているものに、パノプティコンというものがある。
イギリスの法学者ベンサムが考えた監視塔のシステムで、周囲の全てが見通せる塔を真ん中にたて、
全ての部屋を見通せるようにするというものだ。
これで全ての部屋が監視できるのだが、監視塔の中に、ずっと人がいなくてもいい。
「見られている」と思うだけで、悪いことはできなくなる。
自分の心の中にいる見張り役によって、勝手な事はできなくなるというものだ。
「道徳」「倫理」という事を念頭にこれを読んでいくと、なかなか日本人に合う合わないが出て来る。
聖書の「原罪」と、日本に古くからある「業」のせいなのかもしれない。
ともかく、日本人は司馬遼太郎も指摘していたが、昔から「恥」で動く。「罪」は聖書の世界だ。
しかし、確かにこのパノプティコン、自動監視塔は、非常に上手く動いている。
おそらく、この塔が動きつづける限りにおいて、世の経済状況はさておき
創作活動においては皆、一様に「監獄」なのではないかと思うのだ。
同じ服(絵柄)を着せられ、主体性も個性も無い、単なる肉体労働を課せられるのではないか。
私達の間に働いている監視塔は、「倫理」ベースではない。(溢れるポルノを見ればわかる)
そこで私達を監視し続けているのは、1つは市場主義。
売れなければいけないという宿命だ。
そしてもう1つは、実は「自由」なのである。
インターネットの発達で、人は誰でも自由に発言する事ができるようになった。
しかし、実はこの自由さと「本音」と言われる世界こそ、巧妙な監視装置である。
人は人の本音(と、されている部分)を見る。
そこに、ネガティブな言葉がある。理性的な考え無しの、身勝手な批評がある。
何かを好きである事すら、時には疑問視される。
人は寂しい生き物だ。だから、同意で結びつく。
もしここに、かつての日本が持ち得ていた美徳「恥」でもあれば、まだ正常な監視になれたかもしれないが。我々は聖書を持たない。
更に、90年代の、新興宗教にまつわる事件を経験しては、一種の宗教アレルギーとも呼べる状況になっている。
人々は信じるものを持たない。
信じるものを持たない烏合の間に、ただ1つ「自由」を装う監視装置が登場する。
自由に何でも言ってしまえ。ところが更に仕掛けは続く。
「自己責任」という重い言葉によって呪詛される。
自分に不利益だとわかっているのに、それをやるには勇気がいる。
同意をもって認められたいがために創作するならなおのこと、
素直に正体を見せての自己主張などできないではないか。
それでも仮に主張した場合、少数の意見なら放火を浴びると思うなら
互いは互いを、監視塔に人のいないまま牽制しあう。
もしくは、そこに会話など生まれなくなるのではないか。
更に、功利が求められるようになれば、人はインスピレーションというあやふやなものの存在を否定するだろう。人に希望を与えたものは単なる妄想に変わる。もはや脱獄は不可能だと。
そうすると、技術は高いが、独創性に乏しい、個性が無い
まさに監獄的なものしか創れなくなる。
ダダイズム的なもので良いのなら、もういっそ作品の質がどうなどと、考えたりしない事だ。
中身がよくても絵が古い、絵柄はよくても話がイマイチ
絵も話もよくてもいまひとつ盛り上がらない、などなど
重箱の隅を突けばキリはなく、ネガティブな批判を繰り返す事で
そのネガティブさは無意識のうち、読む側の心にすり込まれていく。
その放縦な発言が、新しい監視の眼を生む事を知らずに。
しかし、芸術家のプライドとして、少しでも良いものを目指したいのなら
真の自由を手にするしかないのだろう。
脱獄するには、命懸けの情熱がいる。
もし、脱獄は不可能だと思うのなら、せめて「監視塔」には実は誰も存在しないと知る事だ。
自分の中の自分がダメ出しする。
創作という行為はどこまでも自由であるべきはずなのに、様々な制約と批評眼のために身動きが取れなくなる。
創ってみれば、それはそれで完結するのだろう。(評価がどうあれ)
しかし、世は不景気だ。
何のために創作するかが、お金のためであったとしたら尚更だ。
「こんなものでいいのか」は限りなく増えていく。
ニーズはどうだ、描いても自画自賛、自己完結のひとりよがりにすぎないのではないか?
だいたいこんなのありえない。リアルじゃなかろう
世代ニーズに合ってない。ならばそもそも世代ニーズとは何だ?
酷評されて売り上げに関わってくるなら、無難なものしかできないが
売れ筋を考えたら、やりたいものよりポルノでしょ…
と、尽きないものだ。
フーコーが「監視と処罰」の中で取り上げているものに、パノプティコンというものがある。
イギリスの法学者ベンサムが考えた監視塔のシステムで、周囲の全てが見通せる塔を真ん中にたて、
全ての部屋を見通せるようにするというものだ。
これで全ての部屋が監視できるのだが、監視塔の中に、ずっと人がいなくてもいい。
「見られている」と思うだけで、悪いことはできなくなる。
自分の心の中にいる見張り役によって、勝手な事はできなくなるというものだ。
「道徳」「倫理」という事を念頭にこれを読んでいくと、なかなか日本人に合う合わないが出て来る。
聖書の「原罪」と、日本に古くからある「業」のせいなのかもしれない。
ともかく、日本人は司馬遼太郎も指摘していたが、昔から「恥」で動く。「罪」は聖書の世界だ。
しかし、確かにこのパノプティコン、自動監視塔は、非常に上手く動いている。
おそらく、この塔が動きつづける限りにおいて、世の経済状況はさておき
創作活動においては皆、一様に「監獄」なのではないかと思うのだ。
同じ服(絵柄)を着せられ、主体性も個性も無い、単なる肉体労働を課せられるのではないか。
私達の間に働いている監視塔は、「倫理」ベースではない。(溢れるポルノを見ればわかる)
そこで私達を監視し続けているのは、1つは市場主義。
売れなければいけないという宿命だ。
そしてもう1つは、実は「自由」なのである。
インターネットの発達で、人は誰でも自由に発言する事ができるようになった。
しかし、実はこの自由さと「本音」と言われる世界こそ、巧妙な監視装置である。
人は人の本音(と、されている部分)を見る。
そこに、ネガティブな言葉がある。理性的な考え無しの、身勝手な批評がある。
何かを好きである事すら、時には疑問視される。
人は寂しい生き物だ。だから、同意で結びつく。
もしここに、かつての日本が持ち得ていた美徳「恥」でもあれば、まだ正常な監視になれたかもしれないが。我々は聖書を持たない。
更に、90年代の、新興宗教にまつわる事件を経験しては、一種の宗教アレルギーとも呼べる状況になっている。
人々は信じるものを持たない。
信じるものを持たない烏合の間に、ただ1つ「自由」を装う監視装置が登場する。
自由に何でも言ってしまえ。ところが更に仕掛けは続く。
「自己責任」という重い言葉によって呪詛される。
自分に不利益だとわかっているのに、それをやるには勇気がいる。
同意をもって認められたいがために創作するならなおのこと、
素直に正体を見せての自己主張などできないではないか。
それでも仮に主張した場合、少数の意見なら放火を浴びると思うなら
互いは互いを、監視塔に人のいないまま牽制しあう。
もしくは、そこに会話など生まれなくなるのではないか。
更に、功利が求められるようになれば、人はインスピレーションというあやふやなものの存在を否定するだろう。人に希望を与えたものは単なる妄想に変わる。もはや脱獄は不可能だと。
そうすると、技術は高いが、独創性に乏しい、個性が無い
まさに監獄的なものしか創れなくなる。
ダダイズム的なもので良いのなら、もういっそ作品の質がどうなどと、考えたりしない事だ。
中身がよくても絵が古い、絵柄はよくても話がイマイチ
絵も話もよくてもいまひとつ盛り上がらない、などなど
重箱の隅を突けばキリはなく、ネガティブな批判を繰り返す事で
そのネガティブさは無意識のうち、読む側の心にすり込まれていく。
その放縦な発言が、新しい監視の眼を生む事を知らずに。
しかし、芸術家のプライドとして、少しでも良いものを目指したいのなら
真の自由を手にするしかないのだろう。
脱獄するには、命懸けの情熱がいる。
もし、脱獄は不可能だと思うのなら、せめて「監視塔」には実は誰も存在しないと知る事だ。