高階秀爾さんと小松左京さんの対談「絵の言葉」(講談社学術文庫 74)
を読んで、抽象絵画のやりたかった事とはこんなものなんじゃないのかと思い、
マンガでやってみた。

マンガ文化に育った人ならば、この気持ちの移り変わりがわかるのではないだろうか。
しかし、これは漫画とは呼べないし、呼ばない。
何故なら、漫画とはただ気持ちだけを伝えるものではないからだ。
キャラクターもフキダシも無いものが面白いのかどうか…
私にはわかりかねる。
(娯楽は芸術ではないという類いの人は、面白がるのかもしれない)
また、これを抽象絵画とも呼ばないだろう。
この抽象漫画のどこが、抽象絵画と違うか。
1つは、コマの存在である。
コマは時間の経過を表す。時間とはすなわち、意味である。
もう1つは、この背景に使われた模様、スクリーン・トーン。
これは気持ちを表すものでありながら、その心情を多くの人に共通なものとして
「記号化」しているのである。
抽象は自由な表現なので、各自その表現方法はまちまちだ。
その人の文法はその人独自のものでしかない。
だから、抽象絵画の一枚を「読む」事はできない。
イミを読み取ろうとして「これは何か」を考えるとわからなくなる。
抽象が本当に日本に根付いたのか、それとも単に西洋文化を至上として学んだにすぎないのか
それについては今回は保留するとして
日本人はなんとも、「みんなおなじ気持ち」が好きだ。象徴性が好きだ。
その了解の積み重ねの中で、スクリーン・トーンは作られてきたのだろう。
他にも記号化された感情は色々ある。「怒り」を示す血管十字
閃きの豆電球。焦りの汗、冷や汗の雫。
それがどんな気持ちを示すのか、漢字を覚える以前の子供ですら知っている。
もし、感情を素直に表して、絵画においてフォルムという、そのせめてもの文法を失えばどうなるか。
…集団の中でわけのわからない事をわめきちらす何か
それすら、芸術と呼ぶのは確かに自由だが
下手すればテロ行為すら「アート」と正当化する事になりかねないのではないか。
なぜ、作品について、まるで通訳のような存在が必要になるのだろう?
一目瞭然ではいけないのだろう?
それが、現代アートの大きなカンチガイと行き詰まりの1つだ。
今年、白髪一雄氏とラウシェンバーグ氏が亡くなった。
それらを否定するのではなく、継ぐ事も必要だろう。
しかし、時代の変化というものも少なからず感じている。
を読んで、抽象絵画のやりたかった事とはこんなものなんじゃないのかと思い、
マンガでやってみた。

マンガ文化に育った人ならば、この気持ちの移り変わりがわかるのではないだろうか。
しかし、これは漫画とは呼べないし、呼ばない。
何故なら、漫画とはただ気持ちだけを伝えるものではないからだ。
キャラクターもフキダシも無いものが面白いのかどうか…
私にはわかりかねる。
(娯楽は芸術ではないという類いの人は、面白がるのかもしれない)
また、これを抽象絵画とも呼ばないだろう。
この抽象漫画のどこが、抽象絵画と違うか。
1つは、コマの存在である。
コマは時間の経過を表す。時間とはすなわち、意味である。
もう1つは、この背景に使われた模様、スクリーン・トーン。
これは気持ちを表すものでありながら、その心情を多くの人に共通なものとして
「記号化」しているのである。
抽象は自由な表現なので、各自その表現方法はまちまちだ。
その人の文法はその人独自のものでしかない。
だから、抽象絵画の一枚を「読む」事はできない。
イミを読み取ろうとして「これは何か」を考えるとわからなくなる。
抽象が本当に日本に根付いたのか、それとも単に西洋文化を至上として学んだにすぎないのか
それについては今回は保留するとして
日本人はなんとも、「みんなおなじ気持ち」が好きだ。象徴性が好きだ。
その了解の積み重ねの中で、スクリーン・トーンは作られてきたのだろう。
他にも記号化された感情は色々ある。「怒り」を示す血管十字
閃きの豆電球。焦りの汗、冷や汗の雫。
それがどんな気持ちを示すのか、漢字を覚える以前の子供ですら知っている。
もし、感情を素直に表して、絵画においてフォルムという、そのせめてもの文法を失えばどうなるか。
…集団の中でわけのわからない事をわめきちらす何か
それすら、芸術と呼ぶのは確かに自由だが
下手すればテロ行為すら「アート」と正当化する事になりかねないのではないか。
なぜ、作品について、まるで通訳のような存在が必要になるのだろう?
一目瞭然ではいけないのだろう?
それが、現代アートの大きなカンチガイと行き詰まりの1つだ。
今年、白髪一雄氏とラウシェンバーグ氏が亡くなった。
それらを否定するのではなく、継ぐ事も必要だろう。
しかし、時代の変化というものも少なからず感じている。