男タイプ・女タイプで分けるの嫌になってきたので、
男タイプを「ルネサンス型」女タイプを「ゴシック型」と言う事にする。
本来女性は確かに、男より多少、感情的な生き物なのであるというのは否定はできないのでそう使ったが
短絡的だなと思っている。
女子のための作法というと、どうしても女性はどう感じるか、思うかという「女性論」に入らないではおれない。しかしもちろん、女だからこういうのを好きでないといけない、というものではない。
ただ単に、恋愛ドラマはけっこう女性が好きなジャンルだなってだけ。
そして、その恋愛ドラマに関して言えば
こういうタイプがありますぜ、というものだ。
さて、その二つの型式を出してみたが、方式を書くと、安易に「そうすればいいのか」に陥りがちだ。
実は他にも色々あるのかもしれない。
それに、型式を導き出せば、それ以外のものを抹殺するのかもしれない。
表現というはどこまでも自由であった方がいいにこしたことない。
もう1つ言っておく。すでにイギリスの批評家、ラスキンのいた150年くらい前
いや、もっと前もあるのかもしれないが
誰かが技術的ノウハウなどを研究して示すと「じゃあオマエがやってみろや」と言う人が必ずいる。
天才はノウハウなんか必要ないし、そんな研究はしないのだ。
だから、これは創作概論という1つの「学問」なのだ。
学者・識者が創作者であるかというと、必ずしもそうではないし、中にはそういう人もいるかもねとしか。
いずれにせよ、創作活動自体とは、使っている脳は違うと思う。
で、そのルネサンスタイプとゴシックタイプを比較してみるのに、実にいい素材がある。
「人魚姫」だ。
女の子は好きだよね。悲しい恋。人魚のお姫様。
原作は言わずとしれたアンデルセン。
そして、もう一つ「人魚姫」がある。こちらは、ディズニーがアニメーションにした「リトルマーメイド」
ディズニー版の作品を見ていない人にネタバレになるのを覚悟で言うと、
「リトルマーメイド」の方はオチが違う。
原作では、王子様を殺せば人魚に戻れるのに、王子を殺せず、かといって結ばれない人魚姫は
海の泡になって消えたはず。
ところが、ディズニー作品では、全ては魔女アースラの企みで、魔女の狙いは世界の支配。
王子と姫は共に戦い、魔女をやっつけて結婚する。
この二つの作品の大きな違いは、デッド・エンドかどうかもあるけれど
アンデルセンが文学藝術として成立した「ゴシックタイプ」なのに比べて
アメリカという国で娯楽のため作られた人魚姫は「ルネサンスタイプ」だという所にある。
この二つの作品を比較した時、どちらがダメかなんて私には言えないし、わからない。
ただそれだけだと思う。
自己のレベルアップや、困難を乗り越えて勝利を手にしないアンデルセンの作品が「糞役にもたたん」
などとは口が裂けても言いたくないし、言えない。
しかし、逆にディズニー作品が「過激でどん欲で優しさに欠けたもの」とも言えない。
リトルマーメイドにはリトルマーメイドの啓蒙的価値があるし
アンデルセンにはアンデルセンの、優しさという価値があるだろう。
まさに、どちらの型式が「良い作品か」ではなく「どちらを選ぶか」
作者がどっちを選ぶかでいいのだと思う。それは自由だ。
また、受け手の側もどちらが好きかでいいと思う。
「リトルマーメイド」は、アンデルセンの素材を使ってルネサンスタイプに入れたものだ。
かつてはゴシックタイプの作品は非常に重んじられていた。
だから文学部あたりではしきりに、そういう作品は価値があるが
娯楽は役にたたない駄作説が唱えられてきた。
夏目漱石は、芸術家の使命は世を住みやすくする事だと「草枕」の冒頭で書いている。
では人にとって有益であるとはどういう事か。
その価値観をどう選ぶのか。ただそれだけの話だ。
実は、この二つのタイプはどちらもこの世に必要なものだと思う。
だからこそ、時代と人々のための「必然」として、ディズニーはゴシックタイプの作品をそうリメイクしたのだろう。
ゲームのようにエンディングが選べない場合は、クライマックス以降に必要なのは
無意識でもそういう、価値の選択なのだと思う。
男タイプを「ルネサンス型」女タイプを「ゴシック型」と言う事にする。
本来女性は確かに、男より多少、感情的な生き物なのであるというのは否定はできないのでそう使ったが
短絡的だなと思っている。
女子のための作法というと、どうしても女性はどう感じるか、思うかという「女性論」に入らないではおれない。しかしもちろん、女だからこういうのを好きでないといけない、というものではない。
ただ単に、恋愛ドラマはけっこう女性が好きなジャンルだなってだけ。
そして、その恋愛ドラマに関して言えば
こういうタイプがありますぜ、というものだ。
さて、その二つの型式を出してみたが、方式を書くと、安易に「そうすればいいのか」に陥りがちだ。
実は他にも色々あるのかもしれない。
それに、型式を導き出せば、それ以外のものを抹殺するのかもしれない。
表現というはどこまでも自由であった方がいいにこしたことない。
もう1つ言っておく。すでにイギリスの批評家、ラスキンのいた150年くらい前
いや、もっと前もあるのかもしれないが
誰かが技術的ノウハウなどを研究して示すと「じゃあオマエがやってみろや」と言う人が必ずいる。
天才はノウハウなんか必要ないし、そんな研究はしないのだ。
だから、これは創作概論という1つの「学問」なのだ。
学者・識者が創作者であるかというと、必ずしもそうではないし、中にはそういう人もいるかもねとしか。
いずれにせよ、創作活動自体とは、使っている脳は違うと思う。
で、そのルネサンスタイプとゴシックタイプを比較してみるのに、実にいい素材がある。
「人魚姫」だ。
女の子は好きだよね。悲しい恋。人魚のお姫様。
原作は言わずとしれたアンデルセン。
そして、もう一つ「人魚姫」がある。こちらは、ディズニーがアニメーションにした「リトルマーメイド」
ディズニー版の作品を見ていない人にネタバレになるのを覚悟で言うと、
「リトルマーメイド」の方はオチが違う。
原作では、王子様を殺せば人魚に戻れるのに、王子を殺せず、かといって結ばれない人魚姫は
海の泡になって消えたはず。
ところが、ディズニー作品では、全ては魔女アースラの企みで、魔女の狙いは世界の支配。
王子と姫は共に戦い、魔女をやっつけて結婚する。
この二つの作品の大きな違いは、デッド・エンドかどうかもあるけれど
アンデルセンが文学藝術として成立した「ゴシックタイプ」なのに比べて
アメリカという国で娯楽のため作られた人魚姫は「ルネサンスタイプ」だという所にある。
この二つの作品を比較した時、どちらがダメかなんて私には言えないし、わからない。
ただそれだけだと思う。
自己のレベルアップや、困難を乗り越えて勝利を手にしないアンデルセンの作品が「糞役にもたたん」
などとは口が裂けても言いたくないし、言えない。
しかし、逆にディズニー作品が「過激でどん欲で優しさに欠けたもの」とも言えない。
リトルマーメイドにはリトルマーメイドの啓蒙的価値があるし
アンデルセンにはアンデルセンの、優しさという価値があるだろう。
まさに、どちらの型式が「良い作品か」ではなく「どちらを選ぶか」
作者がどっちを選ぶかでいいのだと思う。それは自由だ。
また、受け手の側もどちらが好きかでいいと思う。
「リトルマーメイド」は、アンデルセンの素材を使ってルネサンスタイプに入れたものだ。
かつてはゴシックタイプの作品は非常に重んじられていた。
だから文学部あたりではしきりに、そういう作品は価値があるが
娯楽は役にたたない駄作説が唱えられてきた。
夏目漱石は、芸術家の使命は世を住みやすくする事だと「草枕」の冒頭で書いている。
では人にとって有益であるとはどういう事か。
その価値観をどう選ぶのか。ただそれだけの話だ。
実は、この二つのタイプはどちらもこの世に必要なものだと思う。
だからこそ、時代と人々のための「必然」として、ディズニーはゴシックタイプの作品をそうリメイクしたのだろう。
ゲームのようにエンディングが選べない場合は、クライマックス以降に必要なのは
無意識でもそういう、価値の選択なのだと思う。