靉光、という変わった名の画家について色々検索していた。
「あいみつ」は、戦前の画家で、去年生誕100年展をやっていた。
あいみつ

靉光展

気になったのは、一番有名なこの絵ではなくて、この画家がいともカンタンに自分の絵の型式を変えてしまう所だ。
最初、てっきりシュールか象徴派の画家と思った。
その眼に、ルドンを連想したのもあったからだ。
しかし、違う。戦争で失われてしまったため作品が少ないのが悔しいが、靉光とはこの絵である、という決定的な特徴を覚えるのにちょっと苦労する。

もちろん、画家には生涯のうち、何度かスタイルを変える人がいる。画家の友人の話によると、毎回似たようなスタイルで出品し続ける人もいれば、極端な例だと出す度に違う、というものもあるらしい。
同じスタイルで描き続けたのではないかと思えるルノアールでさえ、途中で、色彩に溺れて形状を失う事に不安を感じ、きっちりした輪郭のある絵を描いた事があった。

実は、パロディ漫画という異質な所でデビューしてしまった私は、ずっとこの問題と戦ってきた。
上手い人、主体のある人は、どんなジャンルの作品でも、自分の絵にしてしまう。
「パロディであっても、自分の絵柄で描けばよい」という事を編集に言われたのを記憶している。
それは、確かにそうだった。名前を覚えてもらうためには、自分の絵柄は大事だった。
ところが、やがてそれは私には重荷になった。
自分で自分の絵柄に対して、満足できなかった。
周囲には常に、自信に満ち、才能ある人達がいた。その中での読者アンケート結果、ファンの反応というものもある。ブームの変遷、元ネタという素材。

大学時代までは、わかってほしくて、あるいは、居場所がほしくて表現していた。
受け入れられない自分は、自分ではありたくなかった。
それがアダルトチルドレンというものだと知ったのは随分後になる。
ある時、もうこれ以上真面目に描くのはすっかり嫌になった。
やめてしまおうと思った。

ダリのこの絵は有名だから、誰でも知っていると思う。
記憶の固執
「記憶の固執」。


さて、やめてしまおうとして、私は「人生」に逃げた。
物を創らない人にとっては、幻想世界に行く事が逃避になるのかもしれないが、物を創ってなんぼという者にとっては、何も創ったりなんかしない、「ごく普通の生活」こそ逃げ場なのだ。
無条件でごく一般の人に受け入れられ、理解され、愛され、孤独や狂気とつきあわなくてすむ。

家族で笑いあう、サザエさんのような家庭が、いかに私にとって遠く、憧れであったか。
誰かに強烈に愛されるという事は、いかに憧れであり、と同時に虚しく滑稽であった事か。
私は人を誘惑しては、残酷な方法で捨てるという罪な事をした。
そしていざ、自分が捨てられるという時になると、自殺を考えた。
やがて、そんな生活に疲れた。ただ、無条件で帰れる家が欲しかった。

あのイメージの海、という幻想世界に居続ける事は、精神のバランスと常に闘わなくてはならない。
狂気とたわむれなくては、私を満足させてくれるものなんか無いのに
ずっとそこにいる事は、精神病院に入るという事を意味するのはわかっている。
一人闘った所で、「仕事」となるとさらに、それに折り合いをつけなくてはいけなくなる。

記憶は、チーズのように溶けてもなかなか消えはしないのだ。
しかもその時間が、今の自分に根ざしているのなら。
あっちの世界で、実はもうありはしない記憶の中の時間が、何度も何度も繰り返す。
なんたる不毛さだろう。
記憶の固執あっての、合理的な現在であるという事は。

新しい型式を受け入れて、新しいスタイルの中でなら新生できるかもしれないと
かつての私を認識し、記憶した人達も振り切るように、自分を変えたい、捨てたいと思った。
しかし手は、「自分」にぶつかってまた止まる。
結局、自分を証明してくれるものは厳密に言えばどこにもなく
仮象にすぎない具象を通じて、かろうじてつぎはぎの
極端に言えばコラージュのようなものでしかないのかもしれない。

「記憶の固執」の作者のサルバドール・ダリは、死んだ兄と同じ名をつけられて、兄のかわりに生きなければならなかったという。おそらく、彼もまた、自分とは何なのかと闘わなくてはいけなかったのだろう。
靉光は幼い頃、父に養子に出されたのだときく。
良い子にしなければ、と思ったのではなかろうか。
目に見える何らかの形を選択しなければならないからこそ、自己のあやうい画家の型式は危うい。
もしそれが文章であったなら、別のものになっていたかもしれない。

人にわかるように形にする事
今日では「わかる」の意味も様々だ。
人生にも幻想にも、こそこそと逃げ込まずにすむ方法は一つだけある。
それは多分、どちらも楽しむことだ。

非現実である過去に、今の自分の原因をそうそう探らなくてもいい。
何故そんな自分であるのか、よりも
そんな自分だからこそ行ける幻想世界がある事を逆に楽しんでみてはどうかと思うのだ。

もちろん、精神の命綱はつけておいて。