マンガを描いてて、ふと気になる事がある。
作者の手を離れたら、どんなに愛した世界でもすでに他の人のものだが
どうなるのかな。 捨てられる? 保管? オークション? 中古売買?
なんとか、お手元ならずとも、心に残るものを作りたい、なんて思う。

先日、大阪千里中央駅前に設置されていた、彫刻家飯田善国氏の作品
「ステンレスの林」が、再開発のために撤去され、
ゴミ処理施設の車庫で二年余り放置されているという話を新聞で知った。
作品は、パブリック・アートでキネティック・アート。
と、いうまた聞き慣れない言葉が出てきてうんざりするが
要するに、道路や駅前などに置かれている作品であり、更に動く作品です、という事。

新聞の同じ紙面には、開催中のコロー展が人気だとかで、高階秀爾さんが解説を書かれていた。
最先端の芸術はゴミで、人々は「芸術の秋」を楽しみにコローに行くんですかそうですか。
結局、美術はどうがんばっても、一般の人々には「教養」なのだろう。
その作品の作られた背景、作者の示す人生のドラマ、そういうものの方がわかりやすい。

コンセプチュアル・アートにこだわる人達には、まことに失礼だが
本当に、人が大勢行き交う場所に設置しただけで、それは芸術になり得るのだろうか。
人の心を捉えなければ、それはゴミ同然かもしれない、
実はそんな厳しさを、高尚ではない畑の芸術家ほどよく知っている。

どんなにすごい経歴を持ち、すごい人達に影響を受けたとしても、
高飛車に
「これは素晴らしい作品なのだ、何故理解できないのか、
あんた等バカ? 芸術というのはかくかくしかじかであるゆえに…」
と、理論を説明した所で、果たして何人の心を捉えられるというのだろう?

頑張って魂全て注ぎこんだ作品でも、素通りされる辛さを、同人誌イベントに出た者なら知っているだろうし、
真冬のストリートでライブで、手に息を吐きかけて弾いていたアマチュアミュージシャンを私は知っている。
もうすぐ雨の降るナショナル・ギャラリー前の路上に、大作を描いていた画家を知っている。

別に、飯田さんを悪く言う気はない。美術家がけしからんという気持ちもわかる。
ただ、人に理解され、さらに保存されていくには、何より愛されなくてはならないのではないか
とも思うのだ。

その、愛される事のなんと難しい事。

パプリック・アートだのインスタレーションが、わけのわからない邪魔なものにならないためには
考えなくてはならない事があるのも確かだ。

ところで、パブリック・アートなんかよりずっとずっと前から、日本には「お地蔵さん」なるものが、
町のあちこちに設置されている。
作者不明の多い石の彫刻。お地蔵さんは、閻魔大王の化身でもあるらしい。
「見られている」「見ていてくださる」「ありがたい」
そんな気持ちがなければ、お地蔵さんも邪魔なものとして、撤去するだろう。
いかに、日本人がお地蔵さんを愛してきたかよくわかる。

誰も何も言わなくても、好かれた作品のファンサイトは無数にたちあがる。
芸術は理屈じゃない。
何が芸術かを、芸術家だけが決めるのは是なのかどうか。
本当に良いものは、忘れられるどころか惜しまれるはずだ。

その意味では、「くいだおれ太郎」
あれはなんて素晴らしいパブリック・キネティック・アートだろう!!