ラスキン・モリスセンターの露木先生とお話した時も、「どうも最近、若い人の間で共産主義のようなものが流行り出している」
という話になった。
「…共産主義? 社会主義?」
「…ともまた違う…」
この奇妙なねじれについて、どう説明したらいいのか。
少女達の「ゴス」と「ゴシック」、あるいは「蟹工船」を追う度に、
それがかつての思想とはどこでねじれたのか、奇妙にねじれてしまっている気がしてならない。
端的に言うと、共産主義は唯物論と直結していたはずなのに?
という事だ。
いくら格差社会が広がったとはいえ、本当に食料事情で苦しむ者は減り、
飢えの対象が物ではなく、心に移ってしまったからなのだろうか。
バウハウスの学校の建物を設計したベルギーの建築家ヴェルデは、「個性と規格」という対立から
ムテジウスという建築家と対立していた。
バウハウスから何を想像するだろうか?
私がイメージするのは、個性的でありながら一般向けではないような美術。
かつて、ウチの大学でデザイン科と美術科はなんだか仲が悪かった。
ヴェルデとムテジウスの対立に似ていたかもしれない。
職人気質で、多くの人のためにデザインをする事に憧れるデザイン科と
自己表現とは個性の表現であり、主体と情熱と天啓、そんなかんじの美術科。
芸術のための芸術か、それとも人のための芸術かといったところだ。
さて、人のための方にいたムテジウス。彼は日本の明治時代の官庁集中計画に参加、来日して法務省赤煉瓦棟を作っているが
1896年からロンドン大使館にいて、モリスらのアーツ・アンド・クラフツ運動を支持、紹介している。
モリスもまた、貧しい人のためにも芸術をと唱えた人だ。
やっぱりその著書を読んでみても、マルクス主義者だとよくわかる。
そして中世への憧れ。
中世やゴシックは、社会的弱者を排斥しない、受け皿的とでも言うべきか、聖母の慈悲の文化である。
露木先生の指摘は、ラスキンについては主にゴシック建築への興味という事だったけれど
ラスキンも社会主義の人だ。
お金もうけばっかり考えて、公害だらけで自然が壊れるのを嫌ったし、(ナショナル・トラストを始めた人だし)
それを考えると、ラスキンが抽象表現的なホイッスラーの絵を批判したのには、すごく納得できる。
ホイッスラーはアメリカ人だから…というと、偏見になってしまうか?
さて、話の発端となったコミュニズム。
これを考えるには、今ブームの「蟹工船」ではないが、「貧しい人」を考えずにはいられない。
そもそもその思想は、貧しい人と貧しくない人との、どうしようもない格差から生まれたものだろうから。
しかし、精神がアクティブであり、個性的な創造をするという事は
どこかで競争、差別化は行われる事になる。
皆が同じ絵を描いていれば、「アイツだけ売れてチクショウ」なんて事は無い。
だが、そのかわりに「私」なんかどうでもいい、代わりは何人でもいるという事になる。
社会が閉塞感に覆われた時、競争に疲れてしまった時。
資本主義経済が崩れる時、100年以上前の理屈から言えば、そこで革命は起きるはずだった。
問題はこの思想が絶対かという所だ。
私達は(たとえソビエト共産党の思想がすでにマルクスとはズレたものになってしまったとしても)
多くの者は、冷戦の終わりの時に、ああ社会主義・共産主義は破綻したのかと思っただろうし
北朝鮮という国家は自由を奪い、画一化を強いるものだと、マスコミで報道される通りの
あのコミュニズムの姿を信じているのだと思う。
そんなわけで、格差に対抗しての共産思想もどこか虚しく響き
クーデターをするにしては、もはや横のつながりが無い。
90年代にはまだ抱かれたハルマゲドンや教祖というものに対する信仰も、ウソだとわかってしまった。
皆自分の事だけで精一杯だ。
だから町中で単独でキレる。
コンサートで一緒に手を叩いたり、歌ったり、会社ぐるみでの花見に参加したりするのすら嫌。
街頭テレビではなく、個室ビデオで個々の生活を営み
同じ気持ちで一つになる熱い心の繋がりよりも、アバターとカテゴリとプロフで自分のアイデンティティを示す。
私達は、モリスが書いた「ユートピア」のそのまた先に生きている。
ロボットのように理知的である事に憧れつつ、魂という割り切れない荷物を捨てれずにいる。
物質的には満ち足りるどころか、持て余した世の中で、過激なまでに孤独なのだ。
「貧しい」人達が本当に望んでいるものが、奇妙に歪んでねじれてしまっているのだ。
つまり、「貧しさ」が物ではなく、心の貧しさを示すものになった時
未来の日本に必要な、この国独自の新しい思想が必要となってくる。
西洋思想に倣わない、いいや西も東もごたまぜにしたもの。
すでに私達は、20世紀の「主義」を選ぶ主義を脱した世界にいる。
主義なんか唱える必要は無いし、ブームは「マイブーム」となった。
それでもまだ、理想を唱えたがるのか
と言われるのを覚悟で言うならば、今後は
江原啓之や細木数子を超えた、新しくてもっとしっかりした神智学のようなものが必要になるのではないか。
オカルトではないスピリチュアリズムが、心理学の壁を超えて語られ得るならば。
日本のサブカル基盤からなら、案外容易く出てくるのではないだろうか。
過去の思想書なんかぶらさげなくていい。
世の中に負けていてはダメだろうけど。
という話になった。
「…共産主義? 社会主義?」
「…ともまた違う…」
この奇妙なねじれについて、どう説明したらいいのか。
少女達の「ゴス」と「ゴシック」、あるいは「蟹工船」を追う度に、
それがかつての思想とはどこでねじれたのか、奇妙にねじれてしまっている気がしてならない。
端的に言うと、共産主義は唯物論と直結していたはずなのに?
という事だ。
いくら格差社会が広がったとはいえ、本当に食料事情で苦しむ者は減り、
飢えの対象が物ではなく、心に移ってしまったからなのだろうか。
バウハウスの学校の建物を設計したベルギーの建築家ヴェルデは、「個性と規格」という対立から
ムテジウスという建築家と対立していた。
バウハウスから何を想像するだろうか?
私がイメージするのは、個性的でありながら一般向けではないような美術。
かつて、ウチの大学でデザイン科と美術科はなんだか仲が悪かった。
ヴェルデとムテジウスの対立に似ていたかもしれない。
職人気質で、多くの人のためにデザインをする事に憧れるデザイン科と
自己表現とは個性の表現であり、主体と情熱と天啓、そんなかんじの美術科。
芸術のための芸術か、それとも人のための芸術かといったところだ。
さて、人のための方にいたムテジウス。彼は日本の明治時代の官庁集中計画に参加、来日して法務省赤煉瓦棟を作っているが
1896年からロンドン大使館にいて、モリスらのアーツ・アンド・クラフツ運動を支持、紹介している。
モリスもまた、貧しい人のためにも芸術をと唱えた人だ。
やっぱりその著書を読んでみても、マルクス主義者だとよくわかる。
そして中世への憧れ。
中世やゴシックは、社会的弱者を排斥しない、受け皿的とでも言うべきか、聖母の慈悲の文化である。
露木先生の指摘は、ラスキンについては主にゴシック建築への興味という事だったけれど
ラスキンも社会主義の人だ。
お金もうけばっかり考えて、公害だらけで自然が壊れるのを嫌ったし、(ナショナル・トラストを始めた人だし)
それを考えると、ラスキンが抽象表現的なホイッスラーの絵を批判したのには、すごく納得できる。
ホイッスラーはアメリカ人だから…というと、偏見になってしまうか?
さて、話の発端となったコミュニズム。
これを考えるには、今ブームの「蟹工船」ではないが、「貧しい人」を考えずにはいられない。
そもそもその思想は、貧しい人と貧しくない人との、どうしようもない格差から生まれたものだろうから。
しかし、精神がアクティブであり、個性的な創造をするという事は
どこかで競争、差別化は行われる事になる。
皆が同じ絵を描いていれば、「アイツだけ売れてチクショウ」なんて事は無い。
だが、そのかわりに「私」なんかどうでもいい、代わりは何人でもいるという事になる。
社会が閉塞感に覆われた時、競争に疲れてしまった時。
資本主義経済が崩れる時、100年以上前の理屈から言えば、そこで革命は起きるはずだった。
問題はこの思想が絶対かという所だ。
私達は(たとえソビエト共産党の思想がすでにマルクスとはズレたものになってしまったとしても)
多くの者は、冷戦の終わりの時に、ああ社会主義・共産主義は破綻したのかと思っただろうし
北朝鮮という国家は自由を奪い、画一化を強いるものだと、マスコミで報道される通りの
あのコミュニズムの姿を信じているのだと思う。
そんなわけで、格差に対抗しての共産思想もどこか虚しく響き
クーデターをするにしては、もはや横のつながりが無い。
90年代にはまだ抱かれたハルマゲドンや教祖というものに対する信仰も、ウソだとわかってしまった。
皆自分の事だけで精一杯だ。
だから町中で単独でキレる。
コンサートで一緒に手を叩いたり、歌ったり、会社ぐるみでの花見に参加したりするのすら嫌。
街頭テレビではなく、個室ビデオで個々の生活を営み
同じ気持ちで一つになる熱い心の繋がりよりも、アバターとカテゴリとプロフで自分のアイデンティティを示す。
私達は、モリスが書いた「ユートピア」のそのまた先に生きている。
ロボットのように理知的である事に憧れつつ、魂という割り切れない荷物を捨てれずにいる。
物質的には満ち足りるどころか、持て余した世の中で、過激なまでに孤独なのだ。
「貧しい」人達が本当に望んでいるものが、奇妙に歪んでねじれてしまっているのだ。
つまり、「貧しさ」が物ではなく、心の貧しさを示すものになった時
未来の日本に必要な、この国独自の新しい思想が必要となってくる。
西洋思想に倣わない、いいや西も東もごたまぜにしたもの。
すでに私達は、20世紀の「主義」を選ぶ主義を脱した世界にいる。
主義なんか唱える必要は無いし、ブームは「マイブーム」となった。
それでもまだ、理想を唱えたがるのか
と言われるのを覚悟で言うならば、今後は
江原啓之や細木数子を超えた、新しくてもっとしっかりした神智学のようなものが必要になるのではないか。
オカルトではないスピリチュアリズムが、心理学の壁を超えて語られ得るならば。
日本のサブカル基盤からなら、案外容易く出てくるのではないだろうか。
過去の思想書なんかぶらさげなくていい。
世の中に負けていてはダメだろうけど。