現代アートについての本を途中まで読んでいる。
「途中」というのは、実はいろんなイミで痛いからだ。
勘違いしている部分もさぞ多いだろうから、よく理解するまでの安易な批評、
ことに、批判めいたものを書きたくないので、この著者とタイトルはちょっと伏せておこうと思う。
ただ、どうしても読んでて疲れる文章だ。
上から目線な部分が。
単にアートを紹介する本なのだが…。
作品に対して、コンテンポラリー・アートにおいては、
私は既に全ての作品において、良い・悪いの判断はできかねるようになっているのではないかと思っている。
自分の趣味に合うなら良い作品だろうし、合わないなら無理して理解しようとしなくてもいいと思う。
もちろん、評価された作品が素晴らしくて、友人の作品は評価されないから駄作だなんて事はちっとも思っていない。無名でも「好きな」作品はある。
クリスティーズのオークションで何百万ですと言われても、どうでもいいってのもある。
アートが、この先もっと人々に親しまれる身近なものになるためには
絶対に良いという価値観を評論家ぶった人間が与えるべきではないかもしれない。
全ての、力を尽くした表現は良いものである。
当然、技術の差や、受け入れやすいものや、売れる見込みのあるものが、市場競争で勝ち残っていくのは
どの世界でも同じ事だろうけれど。
同人誌業界、特にコミケットが創り手と受け手の間をあんな風に縮めて
巨大化してしまった理由は、誰も作品に対しての絶対的評価を行わなかったからだ。
それは、コミュニケーションの場であり、
コミケに来るという事では「参加者」にかわりはないとされるからだ。
大手はともかく、大多数のサークルでは、描き手と来た人の1対1のやりとりになる。
内輪受けだと言う人は、おそらくコミケを知らない人だろう。
何度も参加していると、実に多くの通りすがりと出会うという事に気づく。
その日その時その場所の作品と作者と読者は、まさに千載一遇、一期一会。
コピーだからオリジナルと違うから そんな理屈もどこか遠い。
コミケのそれは何を意味してきたか。
それが意味してきたものは、作品の評価や権威ではなく、
もっと大きなものだったと私は思う。
閉会前の拍手を共に味わった者ならば、どの作品が最も良くて最も駄作かに焦点があるのではなく
時間と空間を共有できた参加者が、コミケという世界をひっくるめて「愛して」いるからではないかと思う。
確かに、作品は嗜好で選ばれる。メジャーもマイナーもある。
けれど、「参加する」という大きな意義のため、
そして「好きだ」「萌え」という傍からみたらくだらないだろうなと思われるそれのため
続いてきたのではないだろうか。
アートより文芸同人誌より、コミケを選んだ理由は
表現の場として最も単純で、そして健全であったからだった。
無論、今のコミケが果たして完全に健全か、というと巨大になりすぎて判断しかねるのだが。
人は弱い生き物だ。
人より知恵者である事を誇り、無知な者を見下げ
常に自分は弱者なのか、強者なのかを見比べては不安である。
好きかどうかの「直観」は確かに必要だろう。
作品を作者の分祀として捉えた時、そこには「対話」が必ずある。
だから、当然趣味の合わないものもあるだろうし、理解できないものもあるだろうと思うのだ。
しかし、だからこそ言うのだが
自分の独断と偏見に照らし合わせて評価に値しない作品である、と決める事
それはすなわち、人に対して優劣を決め、結果を求めてばかりいるのと同じ事ではないだろうか。
「日本人は海外で評価された作品を良いとし、自らの意見を持ってはいない」
そうだろうか?
これだけの人間がブログを書き、多くの人が美術館へ行き、それぞれの蘊蓄をたれている。
私の周囲のごくフツウの人達は、コンテンポラリー・アートの意味こそは知らないが
漁港をスケッチするアマチュア画家の姿に目を止め、感心し、
子供の描いた「おとうさんのえ」に感心する。
キラキラした携帯のアクセに心ひかれ、メイドのフィギュアにうっとり見入る
全て、素直で偉大な批評家ではないかと思うのだ。
もしもアートと人を近づけたいのなら
「こんな石頭にはアートなんかわからない」という態度をあらためるべきではないだろうか。
石頭なのはどちらだろう。
私達は、実は誰も死ぬまで「結果」なんか出してはいないのだ。
全ての者は道の途中にいるからだ。
それが途中である限り、本当の優劣など、誰にも評価できないだろう。
自分が好きだというならば「好きだ」でいいじゃないだろうか?
「私の気に入った作品は全て良いもので、気に入らないのは劣悪だ」
そういう独断にはついていけない。
なんていうか、高飛車なのにはひどく疲れるよ。
「途中」というのは、実はいろんなイミで痛いからだ。
勘違いしている部分もさぞ多いだろうから、よく理解するまでの安易な批評、
ことに、批判めいたものを書きたくないので、この著者とタイトルはちょっと伏せておこうと思う。
ただ、どうしても読んでて疲れる文章だ。
上から目線な部分が。
単にアートを紹介する本なのだが…。
作品に対して、コンテンポラリー・アートにおいては、
私は既に全ての作品において、良い・悪いの判断はできかねるようになっているのではないかと思っている。
自分の趣味に合うなら良い作品だろうし、合わないなら無理して理解しようとしなくてもいいと思う。
もちろん、評価された作品が素晴らしくて、友人の作品は評価されないから駄作だなんて事はちっとも思っていない。無名でも「好きな」作品はある。
クリスティーズのオークションで何百万ですと言われても、どうでもいいってのもある。
アートが、この先もっと人々に親しまれる身近なものになるためには
絶対に良いという価値観を評論家ぶった人間が与えるべきではないかもしれない。
全ての、力を尽くした表現は良いものである。
当然、技術の差や、受け入れやすいものや、売れる見込みのあるものが、市場競争で勝ち残っていくのは
どの世界でも同じ事だろうけれど。
同人誌業界、特にコミケットが創り手と受け手の間をあんな風に縮めて
巨大化してしまった理由は、誰も作品に対しての絶対的評価を行わなかったからだ。
それは、コミュニケーションの場であり、
コミケに来るという事では「参加者」にかわりはないとされるからだ。
大手はともかく、大多数のサークルでは、描き手と来た人の1対1のやりとりになる。
内輪受けだと言う人は、おそらくコミケを知らない人だろう。
何度も参加していると、実に多くの通りすがりと出会うという事に気づく。
その日その時その場所の作品と作者と読者は、まさに千載一遇、一期一会。
コピーだからオリジナルと違うから そんな理屈もどこか遠い。
コミケのそれは何を意味してきたか。
それが意味してきたものは、作品の評価や権威ではなく、
もっと大きなものだったと私は思う。
閉会前の拍手を共に味わった者ならば、どの作品が最も良くて最も駄作かに焦点があるのではなく
時間と空間を共有できた参加者が、コミケという世界をひっくるめて「愛して」いるからではないかと思う。
確かに、作品は嗜好で選ばれる。メジャーもマイナーもある。
けれど、「参加する」という大きな意義のため、
そして「好きだ」「萌え」という傍からみたらくだらないだろうなと思われるそれのため
続いてきたのではないだろうか。
アートより文芸同人誌より、コミケを選んだ理由は
表現の場として最も単純で、そして健全であったからだった。
無論、今のコミケが果たして完全に健全か、というと巨大になりすぎて判断しかねるのだが。
人は弱い生き物だ。
人より知恵者である事を誇り、無知な者を見下げ
常に自分は弱者なのか、強者なのかを見比べては不安である。
好きかどうかの「直観」は確かに必要だろう。
作品を作者の分祀として捉えた時、そこには「対話」が必ずある。
だから、当然趣味の合わないものもあるだろうし、理解できないものもあるだろうと思うのだ。
しかし、だからこそ言うのだが
自分の独断と偏見に照らし合わせて評価に値しない作品である、と決める事
それはすなわち、人に対して優劣を決め、結果を求めてばかりいるのと同じ事ではないだろうか。
「日本人は海外で評価された作品を良いとし、自らの意見を持ってはいない」
そうだろうか?
これだけの人間がブログを書き、多くの人が美術館へ行き、それぞれの蘊蓄をたれている。
私の周囲のごくフツウの人達は、コンテンポラリー・アートの意味こそは知らないが
漁港をスケッチするアマチュア画家の姿に目を止め、感心し、
子供の描いた「おとうさんのえ」に感心する。
キラキラした携帯のアクセに心ひかれ、メイドのフィギュアにうっとり見入る
全て、素直で偉大な批評家ではないかと思うのだ。
もしもアートと人を近づけたいのなら
「こんな石頭にはアートなんかわからない」という態度をあらためるべきではないだろうか。
石頭なのはどちらだろう。
私達は、実は誰も死ぬまで「結果」なんか出してはいないのだ。
全ての者は道の途中にいるからだ。
それが途中である限り、本当の優劣など、誰にも評価できないだろう。
自分が好きだというならば「好きだ」でいいじゃないだろうか?
「私の気に入った作品は全て良いもので、気に入らないのは劣悪だ」
そういう独断にはついていけない。
なんていうか、高飛車なのにはひどく疲れるよ。