新しいものをやろうと思ったらどうするか。
時代とは進化していくだけのものと考えるなら、前の時代に流行ったものを叩けばいい。
山下裕二氏が「日本美術の20世紀」の中で、雪舟を批判する岡本太郎に対して「そこまで言うか」と批判している。
たしかに、岡本太郎の文章は過激で、バブル以後にすっかり意気消沈してしまった現代人から見ると強すぎて痛い。さすがに天才だ。「そんなものは芸術じゃない」と言いきる。
思わず、「それはあなたの価値観でしょう」と反論したくなる。
「あなたとは違う」と。
大阪万博のシンボルでもあった太陽の塔をはじめとして、岡本太郎こそが芸術であったような
「芸術はバクハツ」はすっかりどこかへ行ってしまった。
あの塔は、前から見ると元気そのものだが、後ろ姿はまるで疲れた中年のように寂しい。
猫背で、青い。
漫画で二次創作というのは、美術で言えばアプロプリエーションに当たるのだろう。
いわゆるパクリ文化なわけだ。
なんでオリジナルで小説家を目指していた私が、パロディで漫画に来てしまったか
それは、パロディには「暗黙の了解」「お約束」「見ればわかる」という
規制のものに依存しきった楽さがあったからだ。
けしからん、と言われるかもしれないが、すでに美術の世界では先に行ってるので
批判は無視して続ける。
かつて、あれだけカオの判別のしにくい「キャプテン翼」がどうして少女達の間で大ブームとなり、
同人誌バブルを起こし、同人誌印刷をはじめとする業界のあり方まで変えてしまったか。
それは、ルールにある。
「日向小次郎は肌にトーン61を貼っていて袖はまくっている」
「若林は帽子」「翼は後ろ毛はねてて明るいかんじ」「若島津はロン毛」
などと、作者がどう自分の絵柄で描いても、「ここは外せない」という共通の約束、
アトリビュートや文法にも似たルールが存在したからだ。
現在の同人誌は逆に、設定が細かすぎて、設定に足枷をはめられている状態になりつつあるが
当時は失礼ながら原作者に対して「自分ならもっとハンサムに描ける」という自信と妄想とを消滅させない程度の自由さと、自由度を保ちながらも多くの人に理解されるというルールがかみ合っていた。
逆に、あまりにも画一化しすぎではないかと思えてしまう最近の同人誌二次を見ていると
岡本太郎の持っていた太陽エネルギー(笑)はうらやましく思えてくる。
主体を無くした二次創作はただのパクリだ。
表現したい事よりも、なんとなく本出してりゃいいか、が先にくる事だけは絶対に避けたい。
どうであってもわかられるという状況にだけは、甘えてはならない。
岡本太郎はとっくに古いか?
ちょっと待った。おそらく、岡本氏がいなければ
芸術はあいもかわらず一部のエリートだけのもの、だったのではないか。
雪舟をダメだと言ったのではなく、既に評価されている価値のものばかりありがたがる権威主義
そういうものがダメだったのではないだろうか。
「いや、そうではなく、今度はこういうものが正しい芸術」
論じ合うのにキリはないし、そういう所にはいつも一般人は入れない。
だったら、どうせわからないし知識も教養も無い者だ
誰にでもわかって、その上けっこう享受したものに感動できて、
自分でも描いたり創ったりしても自由
そういうところにいたい、と思うもの。
下々の民が自由に表現できる基盤を作ってくれた事と、高度経済成長期の持っていた
既存の価値にはむかえるパワー、そういう部分はあやかりたいものだと思う。
二次創作は現代美術のようにマイノリティの世界にはいない。
40万人コミケに来てて何が、世界のアキバと呼ばれて何がマイナーなものか。
だとしたら、そろそろもう一歩、踏み出すがよかろう。
岡本氏よ、太陽エネルギーを我等に!
時代とは進化していくだけのものと考えるなら、前の時代に流行ったものを叩けばいい。
山下裕二氏が「日本美術の20世紀」の中で、雪舟を批判する岡本太郎に対して「そこまで言うか」と批判している。
たしかに、岡本太郎の文章は過激で、バブル以後にすっかり意気消沈してしまった現代人から見ると強すぎて痛い。さすがに天才だ。「そんなものは芸術じゃない」と言いきる。
思わず、「それはあなたの価値観でしょう」と反論したくなる。
「あなたとは違う」と。
大阪万博のシンボルでもあった太陽の塔をはじめとして、岡本太郎こそが芸術であったような
「芸術はバクハツ」はすっかりどこかへ行ってしまった。
あの塔は、前から見ると元気そのものだが、後ろ姿はまるで疲れた中年のように寂しい。
猫背で、青い。
漫画で二次創作というのは、美術で言えばアプロプリエーションに当たるのだろう。
いわゆるパクリ文化なわけだ。
なんでオリジナルで小説家を目指していた私が、パロディで漫画に来てしまったか
それは、パロディには「暗黙の了解」「お約束」「見ればわかる」という
規制のものに依存しきった楽さがあったからだ。
けしからん、と言われるかもしれないが、すでに美術の世界では先に行ってるので
批判は無視して続ける。
かつて、あれだけカオの判別のしにくい「キャプテン翼」がどうして少女達の間で大ブームとなり、
同人誌バブルを起こし、同人誌印刷をはじめとする業界のあり方まで変えてしまったか。
それは、ルールにある。
「日向小次郎は肌にトーン61を貼っていて袖はまくっている」
「若林は帽子」「翼は後ろ毛はねてて明るいかんじ」「若島津はロン毛」
などと、作者がどう自分の絵柄で描いても、「ここは外せない」という共通の約束、
アトリビュートや文法にも似たルールが存在したからだ。
現在の同人誌は逆に、設定が細かすぎて、設定に足枷をはめられている状態になりつつあるが
当時は失礼ながら原作者に対して「自分ならもっとハンサムに描ける」という自信と妄想とを消滅させない程度の自由さと、自由度を保ちながらも多くの人に理解されるというルールがかみ合っていた。
逆に、あまりにも画一化しすぎではないかと思えてしまう最近の同人誌二次を見ていると
岡本太郎の持っていた太陽エネルギー(笑)はうらやましく思えてくる。
主体を無くした二次創作はただのパクリだ。
表現したい事よりも、なんとなく本出してりゃいいか、が先にくる事だけは絶対に避けたい。
どうであってもわかられるという状況にだけは、甘えてはならない。
岡本太郎はとっくに古いか?
ちょっと待った。おそらく、岡本氏がいなければ
芸術はあいもかわらず一部のエリートだけのもの、だったのではないか。
雪舟をダメだと言ったのではなく、既に評価されている価値のものばかりありがたがる権威主義
そういうものがダメだったのではないだろうか。
「いや、そうではなく、今度はこういうものが正しい芸術」
論じ合うのにキリはないし、そういう所にはいつも一般人は入れない。
だったら、どうせわからないし知識も教養も無い者だ
誰にでもわかって、その上けっこう享受したものに感動できて、
自分でも描いたり創ったりしても自由
そういうところにいたい、と思うもの。
下々の民が自由に表現できる基盤を作ってくれた事と、高度経済成長期の持っていた
既存の価値にはむかえるパワー、そういう部分はあやかりたいものだと思う。
二次創作は現代美術のようにマイノリティの世界にはいない。
40万人コミケに来てて何が、世界のアキバと呼ばれて何がマイナーなものか。
だとしたら、そろそろもう一歩、踏み出すがよかろう。
岡本氏よ、太陽エネルギーを我等に!