漫画は芸術じゃない、と開きなおるのは容易くていい。
すごい作品をどんどんと世に送りながら、どういうわけか、私達にとっては学ぶべき先生であった少女漫画家さんの間に、なんとなくそういう空気があった。
こんなにやったところで所詮、漫画は娯楽であって、ニーズに応えるものであって、芸術じゃないよねと。
1970年代以降、丁度モダンアートからポストモダンにさしかかろうとしていた頃に
芸術が何かなどつゆ知らずとも、私のまわりに、作品として漫画はあった。
私にとってはピカソも萩尾望都も芥川龍之介もデュランデュランも
「ここからが芸術です」という線引きはあまり関係の無いものだった。
実はサブカルがどれなのか、いまだによくわからないかもしれない。
同人誌即売会に18禁ゾーンがもうけられはじめ、青少年の健全育成のためにと規制が厳しくなってきた。
その規制について色々と読む。
制作している側としては、とても複雑だ。
エロを描けば売れるから。
それはわかる。しかし「じゃ、最初からエロシーンばんばん入れて」と言われると
きちんとしたストーリーをやりたいと思っている時ほど複雑になる。
エロシーンだけすっとばしていいのは三島由紀夫くらいだろう。
井原西鶴は、「人とは欲望に手足のついたもの」と言ったらしい。
言い当てている。
仏教関係の本をあさっていたら、観音菩薩に行き着いた。
トルストイが言いたかった、人生のための芸術と、
正反対に位置していたワイルドの、芸術のための芸術は
この観音菩薩を考えたら、一直線につながるのではないか。
餓鬼というものが仏教にある。
欲望のカタマリで、欲しても欲しても満たされない欲望に懊悩し
他者を傷つける事くらいにしか喜びはなく、
永遠に欲求不満と、一時しのぎに欲求を満たすという事を繰り返す。
屍体を食べる者、糞尿を食べる者、貴族の夜伽を見に行く者。いろんな種類の餓鬼がいる。
まるでこれは、成人向けマンガの検索カテゴリではないか。
ネクロフィーリア、フェティシズム、スカトロ、
精神病理学系の言葉がそこでは堂々としたカテゴリとして存在する。
悪びれないからこそ餓鬼なのだろう。
梅原猛氏も、六道は現実の人間を表していると思うと書かれていた。
さて、その餓鬼にすら救いの手をさしのべる者がいる。
それが観音菩薩で、観音は33タイプに自分の姿を変えられるらしい。
観音だと気づかれないようにしているわけだ。
そして、餓鬼だろうが人間だろうが、望むものを与えるらしい。
だから現世ではお金という、皆が欲しがるものも与えてくれる。ご利益。
おっとっと。
西洋では芸術を錬金術、魔術にたとえる事がよくある。
その錬金術を見てみると、だいたいは闇から入って光に出よというものだ。
母親の胎内を追体験し、外に出る事がすなわち新生であり、創造であるとする。
つまり、芸術の根本的価値は、頽廃の中から、光を導き出す事。
価値はそこにあるのだろう。
エロであっても、頑に主体や意味を失わずに持つ事。
ワイルドはあれでかなりの道徳者だ。作品を読めばわかるはずだ。
作者こそが頽廃せずに
餓鬼に見つからないよう姿をかえ、餓鬼らの望むものを与え
与える中にその世界から脱却できる一条の光を与えていく事
それが芸術の価値なのだろう。
私はどれが芸術として良い作品かを、誰かが
あるいは作者自身の価値で決めれるのかについては、未だにわからないでいる。
何が良いかをわかっていて創っているかというと、残念ながら全くわかっていない。
だから、人に見せなければ「わからずじまい」なのだと思っている。
最初から「これが芸術です」と用意されたものが芸術なのではなく、
受け手と作者が、感動や感想といった一条の糸でつながった時のみ、どんな作品形式であっても
「芸術」という絆が誕生する、ただそれだけの事ではないのだろうか。
規制に対して私がどうしろこうしろとは言えない。
また、そう考えると、世の中の全ての作品に芸術的であれというのもおかしな話だろう。
多くの人が作品を作る世の中になった。
たくさん創るからたくさん駄作もあるわけで、叩かれる頻度も上がる。
頽廃を考えるなら、やはり意図は必要であってほしい。
と、実はもう誰もそこまで考えて作ってたりはしない世の中、なのかもしれないが。
すごい作品をどんどんと世に送りながら、どういうわけか、私達にとっては学ぶべき先生であった少女漫画家さんの間に、なんとなくそういう空気があった。
こんなにやったところで所詮、漫画は娯楽であって、ニーズに応えるものであって、芸術じゃないよねと。
1970年代以降、丁度モダンアートからポストモダンにさしかかろうとしていた頃に
芸術が何かなどつゆ知らずとも、私のまわりに、作品として漫画はあった。
私にとってはピカソも萩尾望都も芥川龍之介もデュランデュランも
「ここからが芸術です」という線引きはあまり関係の無いものだった。
実はサブカルがどれなのか、いまだによくわからないかもしれない。
同人誌即売会に18禁ゾーンがもうけられはじめ、青少年の健全育成のためにと規制が厳しくなってきた。
その規制について色々と読む。
制作している側としては、とても複雑だ。
エロを描けば売れるから。
それはわかる。しかし「じゃ、最初からエロシーンばんばん入れて」と言われると
きちんとしたストーリーをやりたいと思っている時ほど複雑になる。
エロシーンだけすっとばしていいのは三島由紀夫くらいだろう。
井原西鶴は、「人とは欲望に手足のついたもの」と言ったらしい。
言い当てている。
仏教関係の本をあさっていたら、観音菩薩に行き着いた。
トルストイが言いたかった、人生のための芸術と、
正反対に位置していたワイルドの、芸術のための芸術は
この観音菩薩を考えたら、一直線につながるのではないか。
餓鬼というものが仏教にある。
欲望のカタマリで、欲しても欲しても満たされない欲望に懊悩し
他者を傷つける事くらいにしか喜びはなく、
永遠に欲求不満と、一時しのぎに欲求を満たすという事を繰り返す。
屍体を食べる者、糞尿を食べる者、貴族の夜伽を見に行く者。いろんな種類の餓鬼がいる。
まるでこれは、成人向けマンガの検索カテゴリではないか。
ネクロフィーリア、フェティシズム、スカトロ、
精神病理学系の言葉がそこでは堂々としたカテゴリとして存在する。
悪びれないからこそ餓鬼なのだろう。
梅原猛氏も、六道は現実の人間を表していると思うと書かれていた。
さて、その餓鬼にすら救いの手をさしのべる者がいる。
それが観音菩薩で、観音は33タイプに自分の姿を変えられるらしい。
観音だと気づかれないようにしているわけだ。
そして、餓鬼だろうが人間だろうが、望むものを与えるらしい。
だから現世ではお金という、皆が欲しがるものも与えてくれる。ご利益。
おっとっと。
西洋では芸術を錬金術、魔術にたとえる事がよくある。
その錬金術を見てみると、だいたいは闇から入って光に出よというものだ。
母親の胎内を追体験し、外に出る事がすなわち新生であり、創造であるとする。
つまり、芸術の根本的価値は、頽廃の中から、光を導き出す事。
価値はそこにあるのだろう。
エロであっても、頑に主体や意味を失わずに持つ事。
ワイルドはあれでかなりの道徳者だ。作品を読めばわかるはずだ。
作者こそが頽廃せずに
餓鬼に見つからないよう姿をかえ、餓鬼らの望むものを与え
与える中にその世界から脱却できる一条の光を与えていく事
それが芸術の価値なのだろう。
私はどれが芸術として良い作品かを、誰かが
あるいは作者自身の価値で決めれるのかについては、未だにわからないでいる。
何が良いかをわかっていて創っているかというと、残念ながら全くわかっていない。
だから、人に見せなければ「わからずじまい」なのだと思っている。
最初から「これが芸術です」と用意されたものが芸術なのではなく、
受け手と作者が、感動や感想といった一条の糸でつながった時のみ、どんな作品形式であっても
「芸術」という絆が誕生する、ただそれだけの事ではないのだろうか。
規制に対して私がどうしろこうしろとは言えない。
また、そう考えると、世の中の全ての作品に芸術的であれというのもおかしな話だろう。
多くの人が作品を作る世の中になった。
たくさん創るからたくさん駄作もあるわけで、叩かれる頻度も上がる。
頽廃を考えるなら、やはり意図は必要であってほしい。
と、実はもう誰もそこまで考えて作ってたりはしない世の中、なのかもしれないが。