自分の考えは常識的だと思っていたのに、ネット上ではそうでもなかった、
「自分の考え方がおかしいのだろうか?」
と、そういう経験をしたという人はいないだろうか。
10年前に買ったインターネットの雑誌には、掲示板や個人サイトで、自由に表現できる、
自由な意見を述べられると書いてある。
確かに、10年前ならそうであったかもしれない。
しかし、ネット人口は爆発的に増えた。携帯からのアクセスも含むようになった。
私は、ネット上の表現の自由はとっくに消失しているのではないかと思っている。
例えば読売新聞がやっている「発言小町」は、管理者によってチェックされている。
だから安全だ、と思う人もいるのかもしれないが、
発言が本当に自由であるのかどうかについて言えば、それはコントロールされたものであって、けして自由ではない。削除された意見もあるのだと念頭に置いておかねばならない。
では、大手の匿名掲示板2ちゃんねるはどうか。
ここは、「荒らし」と「煽り」によってコントロールされている。罵詈や行き過ぎた批判もまた、
一つの言葉の暴力として人を支配する。第一、匿名で顔も名前もわからないならば、まともな意見などあるはずがない、というのを頭に入れておかねばならないと思う。
書かれるものが本音だというのなら尚更危険な事で、人の無意識を操れる都合のいいツールとなる。
では「ミクシィ」系SNSはどうか。
仲間うちだから安全だと、誰もが勘違いしがちだが
ここは、カテゴリと、互いが互いの発言を監視する事で、支配者の無いコントロールを可能にしている。
ならば、ブログはどうか。
今使っているアメブロも含めて、多くのブログはどうしてああも、ランキングに参加して順位を上げよと言うのだろうか?
ブログはアクセス数に、あるいはコメントによって発言をコントロールされているのである。
まだネットの黎明期には、そこに書かれるものが言葉である以上、「思った事」「感じた事」も伝えられて当然だと思っていた。
しかし、実際にはグーグルなどのサーチ機能を使って、情報を検索される事はあっても、一つの事に対して人が何を思い、感じたかを検索される事など奇跡というほどに乏しいのだ。
名前も顔も知らない誰かの感情なんかより、買いたい商品が一番安いのはどこかがわかればそれでよい。
欲しい情報についてすぐさま手にできる環境は、非常に望ましい。
しかし、いちいち検索して出た情報に、人の感情が付随してくるとしたら、それを受け取るのは労力と時間のムダだ。
感情を受けとるには過程が必要である。
例えば、読書して感動を覚えるのは、長い文庫本のたまたま開いた頁の1行からではない。全部読まなければわからない。
俳句ですら、中の単語だけでは意味を成さない。
カエルの生態について調べている時、「蛙飛び込む水の音」に日本人的情緒を感じますね、と言われても
戸惑うか、「そうですか」で終わるだけなのだ。
高度情報化の中に生まれた者達にとっては、人間すら情報の一つにすぎない。
だから、彼らは、その存在よりもその分類、カテゴリを重視する。
欲しいと思っている情報ではない感情や思想を押し付けられる=ウザい
理解の範疇を越えている=キモい
ある基準となる考え方で否定したり、疎外する事で自分の存在を危うくしかねない脅威的存在=死ね
短絡的にはそういう言葉で置き換えられるのではないか。
つい最近、スローライフ、スローフードと自閉症の本を読んでいて
もしかして、人は人と会話する事で「時間」を認識するのではないかと考えた。
何時何分、という物理的な時間ではなく、起承転結を経てこそ、はじめて得られる「意味」こそ
人と人とをつないでいた言葉や、存在や、意思にとって大切なものではなかったのかと。
サッカーの試合の、シュートの瞬間の情報だけの画像取り出してみても感動は無い。
野球の試合のホームラン画像だけを見ても、知識や情報は受けるが喜びは無い。
瞬間的に情報を得られる手軽さが奪っていったものは、順序だてて物事をゆっくりと考える方法である。
古くデカルトは「コギト・エルゴ・スム」と唱えた。我思う、ゆえに我有り。
思わない、短絡思考と情報処理だけの個体が出来上がった時、そこにはおそらく「我」はいない。
我が無くなれば、生きている気力も、幸せも、存在の意味も、全ては問うまでもなく虚しいものになるだろう。
教育論は厄介だが、もし、「ゆとり教育」を本当に実あるものにしたかったら、
まず余りある時間を子供達に与えても、携帯やパソコンを安易に与えるべきではなかったかもしれない。
その機械自体には何の問題も無い便利なものなのだが、
浅薄で語彙に乏しい者が安易に多数に向かって何かを書くべきではないのだ。
「ペンは剣よりも強し」という言葉がある。
しかし、モラルを失った、剣よりも強いその剣を安易に振り回す者が増えるのは、いかに危機的状況であることか。子供達はそれを知り得た上で「表現」とはかけ離れた言葉を発し続けているのだろうか。
今、ネット社会は個人から真の意味の自由を奪う事で、人を単なる「物」に化けさせている。
私達はもっと深く、もっと自由で豊かな感性を持ち得ていたはずだ。
一番懸念されるのは、子供達に限らずネット上での言語活動(つまりは人間関係)がそのまま、現実と混同された時だ。それは、ネットを頻繁に閲覧する者と、めったにやらない者の間に、意識のギャップを生む。
おそらく現実では言ってはならない事に対して、歯止めがきかなくなる。
蔓延すれば、社会は根底から揺らぎかねない。
言葉に関して、国語教育の現場以外できちんと考える機会が欲しい。
そして、言葉に携わるはずの者
少なくとも小説や詩や日記などを書く機会のある者は、人の存在と言葉について、少なくとも一度は
熟慮しなければいけない時代にきているのだろう。
「自分の考え方がおかしいのだろうか?」
と、そういう経験をしたという人はいないだろうか。
10年前に買ったインターネットの雑誌には、掲示板や個人サイトで、自由に表現できる、
自由な意見を述べられると書いてある。
確かに、10年前ならそうであったかもしれない。
しかし、ネット人口は爆発的に増えた。携帯からのアクセスも含むようになった。
私は、ネット上の表現の自由はとっくに消失しているのではないかと思っている。
例えば読売新聞がやっている「発言小町」は、管理者によってチェックされている。
だから安全だ、と思う人もいるのかもしれないが、
発言が本当に自由であるのかどうかについて言えば、それはコントロールされたものであって、けして自由ではない。削除された意見もあるのだと念頭に置いておかねばならない。
では、大手の匿名掲示板2ちゃんねるはどうか。
ここは、「荒らし」と「煽り」によってコントロールされている。罵詈や行き過ぎた批判もまた、
一つの言葉の暴力として人を支配する。第一、匿名で顔も名前もわからないならば、まともな意見などあるはずがない、というのを頭に入れておかねばならないと思う。
書かれるものが本音だというのなら尚更危険な事で、人の無意識を操れる都合のいいツールとなる。
では「ミクシィ」系SNSはどうか。
仲間うちだから安全だと、誰もが勘違いしがちだが
ここは、カテゴリと、互いが互いの発言を監視する事で、支配者の無いコントロールを可能にしている。
ならば、ブログはどうか。
今使っているアメブロも含めて、多くのブログはどうしてああも、ランキングに参加して順位を上げよと言うのだろうか?
ブログはアクセス数に、あるいはコメントによって発言をコントロールされているのである。
まだネットの黎明期には、そこに書かれるものが言葉である以上、「思った事」「感じた事」も伝えられて当然だと思っていた。
しかし、実際にはグーグルなどのサーチ機能を使って、情報を検索される事はあっても、一つの事に対して人が何を思い、感じたかを検索される事など奇跡というほどに乏しいのだ。
名前も顔も知らない誰かの感情なんかより、買いたい商品が一番安いのはどこかがわかればそれでよい。
欲しい情報についてすぐさま手にできる環境は、非常に望ましい。
しかし、いちいち検索して出た情報に、人の感情が付随してくるとしたら、それを受け取るのは労力と時間のムダだ。
感情を受けとるには過程が必要である。
例えば、読書して感動を覚えるのは、長い文庫本のたまたま開いた頁の1行からではない。全部読まなければわからない。
俳句ですら、中の単語だけでは意味を成さない。
カエルの生態について調べている時、「蛙飛び込む水の音」に日本人的情緒を感じますね、と言われても
戸惑うか、「そうですか」で終わるだけなのだ。
高度情報化の中に生まれた者達にとっては、人間すら情報の一つにすぎない。
だから、彼らは、その存在よりもその分類、カテゴリを重視する。
欲しいと思っている情報ではない感情や思想を押し付けられる=ウザい
理解の範疇を越えている=キモい
ある基準となる考え方で否定したり、疎外する事で自分の存在を危うくしかねない脅威的存在=死ね
短絡的にはそういう言葉で置き換えられるのではないか。
つい最近、スローライフ、スローフードと自閉症の本を読んでいて
もしかして、人は人と会話する事で「時間」を認識するのではないかと考えた。
何時何分、という物理的な時間ではなく、起承転結を経てこそ、はじめて得られる「意味」こそ
人と人とをつないでいた言葉や、存在や、意思にとって大切なものではなかったのかと。
サッカーの試合の、シュートの瞬間の情報だけの画像取り出してみても感動は無い。
野球の試合のホームラン画像だけを見ても、知識や情報は受けるが喜びは無い。
瞬間的に情報を得られる手軽さが奪っていったものは、順序だてて物事をゆっくりと考える方法である。
古くデカルトは「コギト・エルゴ・スム」と唱えた。我思う、ゆえに我有り。
思わない、短絡思考と情報処理だけの個体が出来上がった時、そこにはおそらく「我」はいない。
我が無くなれば、生きている気力も、幸せも、存在の意味も、全ては問うまでもなく虚しいものになるだろう。
教育論は厄介だが、もし、「ゆとり教育」を本当に実あるものにしたかったら、
まず余りある時間を子供達に与えても、携帯やパソコンを安易に与えるべきではなかったかもしれない。
その機械自体には何の問題も無い便利なものなのだが、
浅薄で語彙に乏しい者が安易に多数に向かって何かを書くべきではないのだ。
「ペンは剣よりも強し」という言葉がある。
しかし、モラルを失った、剣よりも強いその剣を安易に振り回す者が増えるのは、いかに危機的状況であることか。子供達はそれを知り得た上で「表現」とはかけ離れた言葉を発し続けているのだろうか。
今、ネット社会は個人から真の意味の自由を奪う事で、人を単なる「物」に化けさせている。
私達はもっと深く、もっと自由で豊かな感性を持ち得ていたはずだ。
一番懸念されるのは、子供達に限らずネット上での言語活動(つまりは人間関係)がそのまま、現実と混同された時だ。それは、ネットを頻繁に閲覧する者と、めったにやらない者の間に、意識のギャップを生む。
おそらく現実では言ってはならない事に対して、歯止めがきかなくなる。
蔓延すれば、社会は根底から揺らぎかねない。
言葉に関して、国語教育の現場以外できちんと考える機会が欲しい。
そして、言葉に携わるはずの者
少なくとも小説や詩や日記などを書く機会のある者は、人の存在と言葉について、少なくとも一度は
熟慮しなければいけない時代にきているのだろう。