表現の自由だと言って論争が起こる度に、それはエログロだのロリコンだのをやっていいかどうかという事になっている。どうも私の考えている「自由」とは論点がズレているので、何の参考にもならない。

私は長い事、表現する者は自由でなくてはならない、ニュートラルな立場でなくてはならないという基本的なモットーを持っていたし、信じていた。
意思は自由であるとも思っていた。だから、表現においてはどんな束縛も受けないと思っていた。
ところが、構造主義の本を読み始めるや、この考え方は塞がれてしまった。
まだ実存主義を根強く支持する世代に思想というものを教えてもらったせいもあるのかもしれない。
以前は、自由な意思によって、自分は決定されるのだと思っていた。
それは理想的である。そうなればいいと思う。しかし、現実はそうでもないのを、構造主義というより、現実からじかに学んだ気もする。

構造主義については、学者ではないからかなり詳しいというわけではない。誤解誤読もあるだろう。
これはこうだと断定して言うと、いや違うと誰かがいい、永遠に誤読かどうかの判定から出ていけない手の論争になりがちだ。
だから、これは私の考えの手助けと、ただの「読書感想」と思ってほしい。

たとえば、フーコーはエピステーメーという考え方を持ち出す。歴史と心理学に詳しいフーコーらしい考えだと思う。

フーコーが言ったのは、ものの考え方の枠組みのようなものだ。この時代にはこういう風な考え方をする、この時代ではだいたいこのように考えがちという、考え方の基盤のようなものだ。
これをちょっと展開させて捉えると、たとえば、一つ何か事件が起こったとする。それについて、アキバ系、体育系、など考えられる○○系の人達は、それぞれどんな風に考えるか、というような事も含まれると思う。「なんとなく、それっぽいかんじ」の正体。

また、フーコーは互いを監視し合う装置の事について書いている。たとえば、先頃はやった「KY」のように、皆が同じでなければいけない、空気の読めない奴、浮いている奴は正しくないとされたような場合に、意思や主体はどうなるのだろうか、という事だ。
表現者が今、言いたい事があっても、こんな事を書いて嫌われたりしないか、叩かれたりしないか、そう思う所に、その監視装置は仕掛けられているのではないだろうか。

右翼、左翼、宗教、道徳観、人はあらゆるものに、知らず知らずのうちに影響されている。ある日のワイドショーで誰かが言ったコメントに。あるいは好きなスポーツ選手が言った言葉に。ゲームやホラーコミックの影響を指摘するまでもなく、おそらく全ての意識を持った人間が、己の考えと融合して己の考えと信じて疑わない、何かの考え方の枠にハマってしまっているのだろう。
そうすると、自由とはどこにあるのだろうか。それが自分の言葉であるかどうか。
かつては、こんなにも自分の言葉と、自分との距離が遠いものだとは思いもよらなかった。

ただ一方向からの情報、それは洗脳である。
他者の考えや趣味を否定したり受付たりしない、それは偏見である。
そして、自分の考えや趣味にどうしても従わせようとする、それは暴力である。

私が思うに、表現の自由とは、
まず全ての考え方に対して染まらずに受け入れ、何度も疑い、その上で自らの答を導き出す。
そして出た答えに対し、どんな考え方の枠にもとらわれず、勇気と責任を持って示す。
その段階で初めて語られるべき問題だと思うのだ。

こう書いている今も、きっと自由ではないのだろう。
自由か否かを考えた時自由への一歩が始まるのなら、創作するにあたっては
常に情熱的でありながら理性的であるべき
…としか、方法が無い今である。