私はワイルドらの唯美主義の本が好きで、PRBに漱石、そしてボードレールあたりから藝術哲学を学んだ。だから、自然主義者であるトルストイはあまり読まなかった。偏食だ。
ワイルドやボードレールらは、トルストイに名指しで「理解しがたいもの」と批判されていたため、ワイルドらの「トルストイなんか読むな」勧告を信じて読まなかったのだが、
最近ラスキンの本を読んでいたら、「反対意見の本こそ読むべきだ」とあったので、食わず(読まず) 嫌いはやめて挑戦してみた。

そうか、これがその問題の書物「芸術とは何か」か、と。
トルストイ著、河野与一訳 岩波書店。これは古書市で探して、丁度あったので買った。

トルストイが批判しているのは、ボードレール達の象徴派の芸術で、当時は新しいスタイルとして一気に人気が出たものらしい。
この、象徴派の支持者が熱狂的に増える様子が、どことなく今の携帯小説に似ている。
象徴詩が正確に描写される具体性ではなく、感覚的なものでつながるところも。

それまで、芸術とは「意味」のあるものだった。
いつどこで、誰が何をしたという5W1Hに支えられ、しっかりとした作者の意図を、読者が読み取ってはじめて成立するものだった。
象徴派の若手が出てきた時、すでに中年を過ぎていたトルストイは、意味よりも感覚的なもので繋がり、何かわけのわからないものから、自由に各自が発想するという新しいタイプの芸術について、幾分批判めいてはいるのだが、「自分は昔ながらの人間なので、その良さはわからないだけだ」というような事を書いている。
 新しいスタイルに脅かされる、自分が今まで正しいと信じて学んできた形式。これはなんだかロマン派が台頭してきた時と似ている、と思っていたら、トルストイ本人もそれに気づいていたようだ。
 一時のブームだからすぐに廃れるというような事も言ってる。

しかし、新しい芸術の形式は、廃れるどころか、その後の芸術をのっとった。

先日某高校で美術を教えている先生と話していた時だ。
先生は、全ての新しい形式は支流から生まれると言われた。
印象派が何と酷評されていたか。いいや、新しい形式が出る度に、それは「そんなの芸術ではない、本当の芸術とはいえない」と叩かれてきたのだ。
結局、その時、酒の席で先生と出した結論としては
「つまり、形式や様式が全てなのではなく、どんな形でも感動を与えうる表現が、本物の芸術となるだけ」なのだろう…という事だった。
酒の席なのでその程度だ。

「私の認めている芸術がデカダンの芸術よりもいとという唯一の点は、多くの人に理解るところにある」
と、トルストイは書く。庶民のためにわかりやすく、というものを目指してきた彼らしい。
 だいたい産業革命より以前は、芸術家を目指す者は、文人でも画家でも、ひたすら先人に学び、しっかり技術を習得した上でやっと表現に至るものだとされてきた。
 多く者が芸術家として活動できるようになるには、かなりの歳月を費やし、中年以降が普通だったのだ。
 それが、産業構造の変化により「売れれば勝ち」になっていった。10代そこそこの若手が、スキルなんざくそくらえ! で情熱で筆を走らせた、それがロマン派以降の芸術で顕著になる。 
 わかりやすい芸術によって、人はそれが何かをしっかりと理解し、一般大衆の中に「思いやる」心が生まれる。よって作者は常に品行よろしくないといけない、人生を豊かにする、それこそ芸術の目的だ
…とするトルストイは、唯美主義や幻想芸術を「麻薬とかわりない」と批判するのだ。
そういう彼らがどれほどご立派なのか…。
(おそらく、ヴィクトリア時代的な欺瞞に対してはかなり皮肉屋であったワイルドが指摘するのはそこなのだろう。結局、作者などただの人間にすぎないから聖書なんてものも出版されている、と)

 ビジュアル的である事に慣れた世代は、感覚的である。
最も感覚的な芸術は音楽だ。
もし、「何よりもまず音楽を」と、ヴェルレーヌの言うがままに行うとしたら、感覚的に捉えるよりはしっかりと意味を把握してから、という「小説」は、最も芸術とは遠い位置に配置される事になるだろう。
実際、象徴派や唯美主義の小作品は、読み方を知らないと「わけがわからない」として投げられかねないと思う。
そして実際、その意味のあり方に迷いながら、しかしのっとられた新形式によって芸術的であろうとしたゆえに、格調高いとされる一部の小説は感覚的(わけわからんもの)になった気がする。

絵についての色と形について書いた。
では文章はどうかという事だ。
実は言葉は、ランボオの言うようにもし、言葉を色に使うとするならばだが、
私は、詩はともかくとしても文法や文脈といったものを持つ小説のようなものでは、言葉を単なる絵の具のチューブに使うのは危険なのではないかと思いはじめている。
というのは、19世紀の詩人達ならともかく、あまりにも視覚的にして貧困なボキャブラリーの中では
その色すら減色してしまうのではないかと思えるからだ。

退色した情熱を表現する。では、その先にある感覚とは何だろう?
それは、闇雲に悪戯な刺激ではないのだろうか。
それは、早い話、無味乾燥なモノトーンの単なる形、どこかで見たような形にすぎやしないだろうか。
色を失い、最も単純化された形には、もはや個性は乏しい。

そこであらためて必要になってくるのが、スキルの部分という事になる。技術があれば、平面に描かれた三角形でも立体に見えるものだ。ごく普通の日常の一場面ですら、文学にまで高める事はできるだろう。
しかし、スキルも情熱も失った作品は、いくつもの類似をただ繰り返すだけだ。
カンタンに言えば、「にたよーなパクリっぽいものでも売れたら良し」になり、次第にやる気すら奪われる
と、唯美主義に育てられた私はそう思う。

唯美主義者やロマン派が、トルストイらに対抗できる力を持っていたのは、単になんとなくの美的感覚でつながれたからだけではなく、そこに、受け手もまた一人の芸術家と前提した場合にのみ成立する、想像力と情熱、あるいは繊細さがあったからだ。
あえて学ばない事で、仮にインパクトある一作品だけを、運良く世にたたき出す事ができたとしても、書き続ける事は次第に困難になってはこないだろうか?

いや、作者個人はそれでもかまわなくてもだ。
巻かれた作品の方はどうだろう。
こうも言葉に対して無頓着になった現代では、感覚よりもむしろ、どこか退廃的な虚無感で連なってしまうのではないだろうか。

私が懸念するのはそこだ。

もしも簡潔にして情熱的な、文章の色と形を学ぶなら…

と、思っていたら、昨日滋賀県の紫香楽宮遺跡で木簡に書かれた万葉集が発見されたとか。
古人曰く「まあ、これでも見なさいよ」
という事、なのかもしれない。