フォトショップを使ったCGを描いているうち、線画のレイヤーのみ表示にする目のアイコンに触れてしまった。
CGに詳しくない方のために一寸説明しておくと、まずCGのイラストをフォトショップというソフトを使ってやる場合、1番下に輪郭線の下絵を敷き、その上にパーツごとに塗り分けたレイヤー(層)を重ねていく手法が一般的だ。
その線だけ消してみると、色だけ残る。

色と形とは何だろう、と思った。
色は嘘をつく。うちのモニタでやっているカラーイラストがどんなに完璧であっても、違うモニタで全く同じように出すには意外と苦労する。
液晶か、ブラウン管(旧iMac健在)か、プリントアウトすればまた違うし、印刷にまわせぱまた違う。
(モニタのキャリブレーション設定等について専門用語と解決法がそれなりにあるが、今ここでは専門家の世界なので省く)
これに、家の照明の具合まで入れるとなると、設定だけではどうにもならない部分が出てくる。
絵の具で描いたイラストは退色しやすいし、どんなに鮮やかな大作でも時間が経てばくすんでくる。

昼間戸外でスケッチをしていたモネは、光の具合でどんどん色が変化する事に気づいて、同じ場所の光景を、時間ごとにカンヴァスを何枚も分けて描いた。
まさに、「うつりにけりないたずらに」
輪郭線をはっきり描かない事で、当然重視されるのは形より色、という事になる。
印象派といえば、色だ。色と情熱と書いて略して「色情」だ。
エロい意味も含めて、色とはまさに情熱の部分なのだろう。
色は人によって好みも様々だ。その心と同じように、様々だが、形は様々ではない。
数学的な規律に支配されている。フォルムゆえに、人はそれが何かを認識できる。

「色彩派」という言葉をどこかで聞いた事があるかもしれない。色を重視するか、それとも形を重視するか。色彩派というと、「フランダースの犬」にも出てくるルーベンス。
それに対して、デッサン力、形を重視する素描派と呼ばれるものがあり、西洋美術ではこの2つはいつも対立している。
その昔バロック・ロココの時代では、一般大衆が好むものは、ドラマチックで情熱的で、アタマ悪くても心で理解できるものだった。(もしかしたら高視聴率ドラマに通じる何かがあるのかもしれない)
反対に、インテリが好きなのは色より形、正確なデッサン力、理性的なものだった。

日本人はどうだろう。日本画は線画がメインだ。ほとばしる情熱でフォルムを破壊し、爆発するのは「異色の」才能であり、日本画の世界は常にクールに形を保ってきた。
コミックやイラストの世界は、形は常に最優先課題かもしれない。版画が版画であるがゆえに、線が大事にされたように、CGもまた、CGの技法書があるゆえに、1番下のレイヤーは大切なのかもしれないのだが。もしかしたら、色よりも形を優先する所が、日本人好みであるのかもしれない。
線画のレイヤーを消して、後期印象派の絵のようになったイラストが市場で受け入れられるかどうか…。
それはどんな心情かよりも、それがいったい何であるか、認識でつながっている業界では、素直に色だけを求め合う事はまず、無理なのではないか。そう思った。

オタクはインテリである。何の本も読まないオタクはいない。それゆえ、線画であるコミックからはじまったオタクの表現の現場が、形を重視するだろう事は容易にわかる。
では、世の中がオタク化、インテリ化するとどうなるか。
おそらく、感情でわかりあう部分が乏しくなってくるのではないか。

養老孟司さんがベストセラーの著書で、我々が脳化している事を書いていた。
しかし、本当に皆賢くなったのだろうか。単に、情報を集めて整理し、それは何であるかという
「形」だけで片付けてしまっているのではないだろうか。

色の無い世界はなんとも寂しい。移り変わる色を求めるのは、確かに労力がいる。
しかし、その繊細な色にこだわってきたのもまた日本人ではなかったか。
日本画の岩絵の具を見ると特にそう思う。
四季のうつりかわり、派手な色ではないが、実にこまやかに色を見てきた。

形は正しいが色は正しくない、そんな事を考える方が正しくないのかもしれない。
色は、移り変わるゆえにそれもまた正しいのだろう。
今モニタで出した色は、正確には誰にも伝わらないのかもしれない。
もしかしたらハナから線画とベタだけでもいいのかもしれないぞ? とすら思いつつ。

それでも、色に対しての可能性を見限る事はできないでいる。
なんとももどかしいものだが。