今年の四月から(東京では三月からだったかもしれないが)はじまった「ヴァンパイア騎士」というアニメがはじまった。
ちょっと知らない人のために書いておくと、このアニメは樋野まつり著の同名コミックスのアニメ化で、主人公の女の子は吸血鬼と人間が通う学園の主人公だ。
純粋な吸血鬼の美少年に憧れる主人公の黒主優姫(くろすゆうき)は、吸血鬼(ダークな世界)と人間界(社会)の間に立ち、両者の架け橋になるべき存在、学園を守護する係として描かれている。
由貴香織里の「天使禁猟区」のコミックス1卷発売から約10年。比較して読むと面白い。

約10年程前、いわゆる「世紀末」では、ファンタジーの世界は完全に閉じた世界だった。
ファンタジーは現実逃避にはじまる旅である。
だから、主人公は現実に戻ってこなくてはならない。児童文学とファンタジー創作の基本を学ぶ時、そんな事を教えられた。優れたファンタジー作品は、必ず現実(物語の中でのこちらの世界)に戻って来るか往来するものだと。
ところが、ゲーム用ファンタジーが発売された頃からだろうか、ファンタジーが変容した。こちらの世界に戻らなくてもよいものが増えた。
完全に非現実に始まり、非現実に逃避したまま終わるという類いのものだ。トールキンのように世界のあちこちに、現実の比喩がしかけられているかというと、それにもちょっと疑問が残る。
作者個人の頭の中で完璧に作られた世界は、別な人とは痛みやストレス、性的快楽を感覚的に共有し合う事で繋がれるだけの、無関係で膨大な世界になった。
もしくは受け手が完全にその世界に呑まれ、現実と虚構をごっちゃにし、生まれ変わりや不死まで信じるような、そんなものになってしまった感があった。
現実と幻想の区別がつかず、空想の中で行われた行為が現実でも行われる事を、社会は常に懸念してきた。
マスコミはいつもわけのわからない犯罪が起きる度に、ゲームやコミックの影響を指摘し、
それらしいコメンテイター達が「最近の若者は」と解析した。

このコミックスで語られるヴァンパイア、夜間部に通い、それとない雰囲気を漂わせ、
痛みをやわらげるモルヒネのような力を持つ特異な存在の彼らは、いわゆる人の心の夜を象徴している。
さけ難いダークな世界と、普通の世界を往来し、繋ごうとする主人公の姿は、そのままダークさを未解決なまま内包する、ゴシック的な少女の世界でもあるし、同時に、闇を解決できないままいる、今日の社会そのものに見える。

ゴシックに興味を持っていたという19世紀の社会学者であり美術評論家のジョン・ラスキンについて、私はあまり詳しくなかったので、大阪のラスキン・モリスセンターでお話をうかがい、色々調べてきた。
ラスキンが興味を持っていたのは、ゴシックの建築であるという。
自然が好きだったラスキンは、ナショナル・トラストの発案者であり、産業の発達と共に自然が失われる事に心を痛めていた。
ラスキンがゴシック建築に興味を持ったのは、ゴシック建築物が「森」を象徴しているからだろう。
日本の寺社は、自然の中に共存して建っているため、あらためて森の装飾をほどこしまくる事はないのだが。

合理的な社会を重んじる事で、忘れられていくもの
人の優しさ、思いやり、美、時に、自分に無関係な感情すらもウザくてキモくなる。
その失われていくもの(しかし人が永遠に持っており、人の証であるもの)は、かつてゴシック・リバイバルのその時に、ラスキンらが心を痛めた、失われていく部分への哀惜と呼応する。

ところで、プロテスタントは偶像崇拝は禁止である。しかし、ラスキンはカトリックではなくて、熱心なプロテスタントだったらしい。ピューリタンの美術批評家という立場にあった。
ところが、1858年トリノから父親へ宛てた手紙では、「建物は立派だが中に人がいない」と、プロテスタントにうんざりしている事を伝えている。その頃から毎週日曜に絵を描くようになったらしい。

夜間部が存在する方が自然なのだ、と気づく者は誰で、何人いるのやら。