続き。
はじまりがその「ストロベリー・ヒル」だとして、およそ150年は続いたかのようなゴシック・リバイバル。
100年以上続くものを果たして「主義」と言えるかどうか。
ゴシック・リバイバルは、PRBが「ラファエル前派主義」といいながら主義というより現象であったように、
やっぱり現象なのだし、できればぜひそうであってほしいと思う。ゴシックは主義にあらず。

ところで、現在、団塊より下の世代はとっくに、個人主義の時代に生きてはいない。
いつ頃からなのかわからないが、多分、「北斗の拳」でケンシロウが暴漢にアタタ!とやり、「お前はもう死んでいる」と言ってた頃からか。
個人主義であるならば、「KY」という言葉は流行らない。
単に元来、皆でつるむのが好きなのが日本人の国民性、で正しいのかどうか、それは私には何とも言えない。そうかもな、と思う時はあるにせよだ。
(そういう性質に従わなければ排除される者が多くなれば、自然同じ性質の者の数は増えるので)
ただ、生き物は弱いほど寄り集まる。自然の摂理として。

司馬遼太郎は「歴史と小説」の中で、
「ヨーロッパにおける思想みたいなものは日本人のなかにはなかったですね。相手の思想と自分の思想が違うから、相手の思想を殺すというようなことはないですね」
また、
「幕末のことを考えているときに、フッと日本人のなかに無思想性というものを思ったんです。そこであれを動かしているのはイデオロギーや思想じゃないんだ、今様の言葉で言えば、それぞれの固有の個人がもっているパッショネイトかなにかがあって、それが動かしているんだと感じたんです」
と語っている。

では、情熱や理想を失った個人主義を何と言ったらいいのだろうか。
後に残ったのは「身勝手」という冷たい屍だ。(なるほど、マンガに死神が増えるはずだ)

日本は昔からごたまぜだ。おせちに飽きたらカレーを食べる。四天王寺や熊野は神仏習合。神もいいけど仏もね! 明治維新のあのイデオロギーが無ければ、多くの仏像は失われずにすんだ。
一方、西洋を見てみると、司馬さんの言うように常に「正当」と「異端」は存在している。

そこで、今もう一度、中世に目をやってみる。
ルネサンスによって「暗黒」とされた時代、多くの人に来てもらおう! 多くの人に喜んでもらおう!と思って作られた教会には、ガーゴイルがいるし、ケルト信仰も混ざっている。何でもアリなのだ。
ところが、宗教改革が起きる。新しい宗教、プロテスタントは偶像崇拝を認めない。
イギリスではヘンリー8世が修道院を解散させ、多くの美術品は失われた。

ルネサンス以降、美術界は「マニエリスム」というものを迎えた。いわゆる「マンネリ」だ。
様式と師匠のお手本こそが美のうんぬんかんぬん…という蘊蓄にまみれているのだが、
要するに「どうすれば師匠のよーに成功できるのか」を追い求めた、ノウハウの世界なのだ。

感動する美術作品と、感心する美術作品というのがある。この2つは、感動を体験した者ならわかるはずだが、感動はなかなか言葉にならない。
しかし感心はいくらでも褒め言葉(あるいは逆に批判)になる。
人を感動させるのは、ハウツーではないというのはこのあたりにある。

ある規範に従うには、個性は捨てざるを得なくなる。
画家は本当はこう線を引きたいのだ、と思っても「それじゃあ認められませんから」という訳で
用意されたひな型に合わせられる事になる。
そうする事で、誰にでも気に入られる、都合のいい作品、個人は出来ていくだろう。
この状態で情熱や希望を失うと、死に至る病。

なんでもありの「よろず屋」になった場合、どうしたら成功するかではなく
どうしたら人として誇り高くあれるのか、その信念だけは無いと、無法地帯になってしまう。
美しい信念は、感心でなくて感動されるものだ。
だからこそなんでもありの日本で、それだけは貫かれてきた。
それを「武士道」と言った。武士道は主義ではない。しかし、たしなみだった。
いいじゃないかたしなみで! ゴスのたしなみ!!

実は、ゴス系はこんなかんじ、と定義してしまう事が、新しい偏見を生む元になりはしないか、ちょっと気にしつつ書いていた。
○○系はこうで…という分類は、複雑化した情報社会の中では、とりあえず便利だが。
あらゆる人がそのカテゴリでの例外であれば、世の中ちょっとは面白くなるかもしれない。

矛盾に頭を下げる事なく、堂々とたしなみたいものだ。
じゃあ、たしなむためにもゴシックの美はどこらへんか。
次はそのあたりで宝石採掘。
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参考文献 「歴史と小説」 司馬遼太郎 集英社文庫 ISBN:4-08-746113-0
(引用は「維新の人間像」より)