同人誌イベントでは、スケッチブックのやりとりが行われる事がある。
大抵は、作者がサービスとして無料で描いているものだ。
客(読者)が「スケッチブックお願いします」と言うと
「ではどなたを描きますか?」
「○○(ジャンル)の××さんでお願いします」
という会話がなされる。

表現というものは、全て自己表現であり、オリジナルで自らの意見を語る事が創作だ、
そんな風に教えられ、またそういう気風であった80年代後半、
パロディも二次創作も今程は認知されてはいなかった。
私はパロディ雑誌での連載を経験した後、竹宮恵子先生のプロダクションにお邪魔した事があったが
実は、24年組の少女漫画家と、その頃から注目されだした同人誌漫画家との間には、
ちょっとした壁、軋轢、確執のようなものが生じていた。
上世代の少女漫画家のインタビューや漫画の手引きなどには、やはりモダンアートや実存主義の考え方の影響があったように思う。
作品とは、作者そのものであり、自己の表現である。従って、「どう描くか」という個性は大事。
だから、基本的にパロディは認めない。大事なのはオリジナリティ、真似は御法度。
「同人誌出身の○○さんが同じ雑誌に載るなら、私はもう描きません」と言った先生もいらっしゃったとか。(当時の同人誌業界には24年組系の漫画家アシがけっこういたので、そういう噂にはこと欠かなかった)

編集部に対しては、「パクリだ、発行を停止しろ」という脅迫めいた「ご意見」もひっきりなしに届いていたようだ。
ここ20年ほどで随分変化したと思うのだが、当時は読者も厳しかった。
ギャグならいいけど、ストーリー物をパロディでやるのはどうかと思うという意見もあったし、
逆に自由にやりすぎて「○○さんを酷く描かないで下さい」という苦情を受ける漫画家もいた。
つまり、「批評と諧謔」というスタイルがメインであったパロディの中に、「萌えで二次創作」というものが生まれてきたわけだ。

私が一番面食らい、戸惑ったのは、
自らを表現する事、テーマは言葉、主張、そういうものだと信じてきたオリジナルの世界から
「○○さん描いて」というご注文の世界に来た時、どう描けばいいかという事だった。
なるべく似せて描くべきなのか? しかしそれでは、それこそパクリだろう。
実は、あまり考えずに感覚的に素直にやれば正解だったのに、考える事が好きなのが災いして、考えてしまった。
では、完全に自由にやっていいのか? それでは何が描かれているかわからなくなる。
そもそも、元ネタと基本設定のある世界に「自己表現」など存在するのだろうか?

では、全くのオリジナルとは何だろう。
誰も見た事ないものを誰がわかるというのか。
そういう問題におのず、ぶつかる。人は、見た事も無いものはけして描けないか、描いても理解されない。マンガなら、美術のようにわけのわからんものでは済まされない。
どこまでも自己の意識を追おうとするならば、抽象のようにフォルムという概念を捨てるべきだろう。

この疑問は、アグレッシブに自己表現をする時代と、個を失い連関する時代という風に分けると面白いものが見えてくる。

例えば、フィディアスらのいたギリシャの時代、この時代にはじめて美術史に「作者名」が出てくる。
次に、そのギリシャ時代に憧れたルネサンス。ご存知の通り、天才達がその名を轟かす。
そして、モダンアートと表現されるべき自己の時代。

これに対して、もう1つ個人より神(対象)を求める時代がある
中世の時代には、特別な人物を除いては、作者よりも「何が描かれているか」が大切だった。
求められるものは、個人(作者)でなく、描かれているイコン(聖像)だった。
もし、中世に画廊なるものがあったなら「○○という画家の絵を下さい」ではなく「聖母マリアの絵を」
と言ったはずだ。

イベントでのスケッチブックの話に戻ろう。
「スケブ」を頼まれて、描いているうちに「黒髪ロングストレート…しまった、これじゃ別のジャンルの○○じゃないか…orz」という事もある。
自分の絵柄になってしまう以上、「これは頼まれた○○さんです」という最低限の「お約束」が必要になってくる。そうしないと、「誰やねん?」になってしまう。
その人物を特定できる持ち物や特徴があれば、納得いくやりとりができる筈。

これはまさしく「アトリビュート」ではないだろうか。
宗教画における、聖母マリアやキリストである事を特定できるアイテムの事だ。
ルネサンスの先駆者で、人間の個の持つ美しさを復活させたと言われるドナテルロは、そのアトリビュートを否定した。そりゃ、そうだろう。
「個」の表現には、邪魔だったのだ。

二次創作のキャラクター達は、基本設定に従いつつも、少女達の憧れで作られていく。
アトリビュートのように「最低限これは外したらダメ」という性格や特徴を抽象しつつ、シンボル化して
いったん自らに取り込み、再現し、受け取られる。
そのやりとりの中で、原作とは多少違った「お約束」も生じる事がある。
例えば、BL(ボーイズラブ、やおい)に於ける「受」と「攻」のようなものもそうだ。
解釈の差と連関によって派閥ができる。
これは、批評や諧謔のパロディとはかなり異なっている。

やがて、我々を取り巻く時代は
どんな夢も信じれば叶うと歌われた明るい時代から、バブル崩壊、そして不景気なままの暗黒時代を迎えた。
「頑張っても無駄かもしれない」「先が見えない」
という漠然とした閉塞感、不安を抱えたままの時代になってしまった。

同人誌イベントの少女達、あるいは男性のオタク達も同様、繊細な人の集まりやすい場所は、無意識的に宗教を求めていた、と言ったら大げさに聞こえるか。
(それがオウム真理教のように具体的な形を取らなかったとしても)
つまり二次創作とは、原作を聖書にした宗教画のようなものなのだろう。

しかし、あらためてまたそれを「表現」と呼ぶならば、呼びたいならば。
スケッチブックを頼む人は、「誰でもいいからそこらへんの人に描いてもらおうっと」というのはやめてあげよう。
スケッチブックを頼まれた人は、感謝と共に自分のサインを忘れずに。