意匠がある限りパクリではない。
個人の想いと、それを表現する技術こそ芸術。
もし、芸術至上主義的な考え方がもう一度許されるのなら、こう言える。
お金儲けのためだけに作品がでっちあげられるのなら、それはインスピレーションに対する冒涜でしかないと。
何故、創造的霊感に根拠を求めるのか。
科学や数学ですら直観からなされるではないか。
わが国のコミック同人誌やインディーズ音楽業界は、商業的束縛に背いて独自の流通経路を作る事で特異な発展を遂げている。
しかし、活動の裾野が広がった事よりもむしろ市場原理から、今、この折角の自由な環境は危機にさらされていると思う。
売れなければならない宿命、数多く売るという事と表現の自由は、芸術の擁護者が一般大衆に移った事によって重い課題となった。
大衆の支持は必須かもしれない。しかし、多くの者は理想までの道のりなど理解しない。
教科書を見て答を導き出すよりも、解答集を買いたがるものだ。
マスコミよりももっと善いものに啓蒙されなければ、大衆に委ねた芸術なんか頽廃するのみ
…なんて事は、すでに2度の大戦前も言われてはいた。
「芸術についてどうあるべきかを、今更ボードレール達の時代にまで戻せなどと考えるのは滑稽な事なのかもしれない」
と、考えながらも象徴派や、PRBなどの絵画に見られる文学との一致の中に、「二次創作」の意義を拾い上げるものが無いかと調べてみている。
難しい事を並べたが、早い話わかりやすく言うと、私は「コミケ」が好きだ。
しかも、それを生業にするのは悪くはないと思っている。
ただそれが18禁であれ何であれ、表現である限りは、流されない姿勢も必要だと思う。
つまり、作者として「意匠」をしっかりと自覚すればするほど、おのず道義的になるのではないかと思うのだ。
意図こそ言葉であり、詩や小説の根幹なのだから。
(三島由紀夫が性描写を克明に書くのを避けたのは、それをしっかり持っていたからだ)
19世紀末、英国にウィリアム・ホルマン・ハントという画家がいて、テニスン詩集を題材にした絵を描いた。

ところが、原作に全然無いのを描きくわえたので、原作のテニスンが怒ったらしい。
しかし、夏目漱石は、おそらくそのハントの絵からインスピレーションを得て
あの有名な「薤露行(かいろこう)」を書いたようだ。
オスカー・ワイルドに挿絵を頼まれたビアズリーは、ワイルドの原作「サロメ」に全然無関係の挿絵を描いてしまいワイルドを激怒させたというエビソードがある。
その原作の「サロメ」も、もともと全部聖書には書いて無い。
テニスンのシャーロットの姫も元ネタはアーサー王伝説だ。
インスピレーションを何処に求めるか。
発注通りの肖像画を描きたくなかった画家が事件や自然に目を向けた事があったが、PRBは、聖書や文学に題材を求めた。
20世紀の美術の源に奉れたのが印象派なため、「読む」よりもダイレクトに感じた事を表現し、
それを言葉無く受け取るのが美術的な価値とされてきた。
おかげで、今では多くの人が誤解している。
「芸術的なものとは、なんだかよくわからない形の無いものをダイナミックに描かれているものである。メチャクチャに見えるが、メチャクチャだと正直に言うと、お前は美術の知識が無いなと笑われるかもしれないので、一応スゴいとほめる。それを理解できるというのがすごいのだから」
と。
詩は捨て去られるべきではない。
その言葉、テクストを取り戻す事を考えた場合
そしてインスピレーションの自由を考えた場合も、意匠という羅針盤さえあれば
二次創作は立派に芸術としても成立するはずなのだが。
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参考文献
「イギリス美術」高橋裕子著 岩波書店
「マンガと著作権~パロディ引用と同人誌と~」監修 米沢嘉博 青林工藝社
個人の想いと、それを表現する技術こそ芸術。
もし、芸術至上主義的な考え方がもう一度許されるのなら、こう言える。
お金儲けのためだけに作品がでっちあげられるのなら、それはインスピレーションに対する冒涜でしかないと。
何故、創造的霊感に根拠を求めるのか。
科学や数学ですら直観からなされるではないか。
わが国のコミック同人誌やインディーズ音楽業界は、商業的束縛に背いて独自の流通経路を作る事で特異な発展を遂げている。
しかし、活動の裾野が広がった事よりもむしろ市場原理から、今、この折角の自由な環境は危機にさらされていると思う。
売れなければならない宿命、数多く売るという事と表現の自由は、芸術の擁護者が一般大衆に移った事によって重い課題となった。
大衆の支持は必須かもしれない。しかし、多くの者は理想までの道のりなど理解しない。
教科書を見て答を導き出すよりも、解答集を買いたがるものだ。
マスコミよりももっと善いものに啓蒙されなければ、大衆に委ねた芸術なんか頽廃するのみ
…なんて事は、すでに2度の大戦前も言われてはいた。
「芸術についてどうあるべきかを、今更ボードレール達の時代にまで戻せなどと考えるのは滑稽な事なのかもしれない」
と、考えながらも象徴派や、PRBなどの絵画に見られる文学との一致の中に、「二次創作」の意義を拾い上げるものが無いかと調べてみている。
難しい事を並べたが、早い話わかりやすく言うと、私は「コミケ」が好きだ。
しかも、それを生業にするのは悪くはないと思っている。
ただそれが18禁であれ何であれ、表現である限りは、流されない姿勢も必要だと思う。
つまり、作者として「意匠」をしっかりと自覚すればするほど、おのず道義的になるのではないかと思うのだ。
意図こそ言葉であり、詩や小説の根幹なのだから。
(三島由紀夫が性描写を克明に書くのを避けたのは、それをしっかり持っていたからだ)
19世紀末、英国にウィリアム・ホルマン・ハントという画家がいて、テニスン詩集を題材にした絵を描いた。

ところが、原作に全然無いのを描きくわえたので、原作のテニスンが怒ったらしい。
しかし、夏目漱石は、おそらくそのハントの絵からインスピレーションを得て
あの有名な「薤露行(かいろこう)」を書いたようだ。
オスカー・ワイルドに挿絵を頼まれたビアズリーは、ワイルドの原作「サロメ」に全然無関係の挿絵を描いてしまいワイルドを激怒させたというエビソードがある。
その原作の「サロメ」も、もともと全部聖書には書いて無い。
テニスンのシャーロットの姫も元ネタはアーサー王伝説だ。
インスピレーションを何処に求めるか。
発注通りの肖像画を描きたくなかった画家が事件や自然に目を向けた事があったが、PRBは、聖書や文学に題材を求めた。
20世紀の美術の源に奉れたのが印象派なため、「読む」よりもダイレクトに感じた事を表現し、
それを言葉無く受け取るのが美術的な価値とされてきた。
おかげで、今では多くの人が誤解している。
「芸術的なものとは、なんだかよくわからない形の無いものをダイナミックに描かれているものである。メチャクチャに見えるが、メチャクチャだと正直に言うと、お前は美術の知識が無いなと笑われるかもしれないので、一応スゴいとほめる。それを理解できるというのがすごいのだから」
と。
詩は捨て去られるべきではない。
その言葉、テクストを取り戻す事を考えた場合
そしてインスピレーションの自由を考えた場合も、意匠という羅針盤さえあれば
二次創作は立派に芸術としても成立するはずなのだが。
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参考文献
「イギリス美術」高橋裕子著 岩波書店
「マンガと著作権~パロディ引用と同人誌と~」監修 米沢嘉博 青林工藝社