そろそろこの連載のまとめ。
さて、英国の大衆文学といえばディケンズ
「オリバー・ツイスト」や「クリスマス・キャロル」で有名なチャールズ・ディケンズは、ソロモン達の時代、もっとも多くの人々に愛され、道徳的で善いと評価されたベストセラー作家だった。
そのディケンズは、同じように道徳的で保守的な詩人ブキャナンと共に、PRBを酷評する。
ディケンズ達の側に立ってみれば、ゴシック・リバイバル、なんでもありを唱える彼らは
悪の温床になり得るいかがわしいものと感じたのではないだろうか。
多くの者は貧しいが善良で道徳的で平凡、そんな社会の「中」で活躍していたディケンズらにとって
PRBといえば過激で退廃的な、アウトサイダーなのである。
紳士淑女諸君のために仕事をする彼らに、犯罪ギリギリのPRBは野獣に見えたかもしれない。
ブキャナンは「自らの欲望のみの作品で、他人を喜ばそうとしない。しかもパクリだ」
と批判している。
ディケンズは「常識はずれ。大衆にはこういう幼稚な連中の反抗心を展示させるのをやめさせる権利がある」と「タイムズ」にコメントしている。
私はブキャナンらのこの批評が、日本のオタク同人誌への批評そのものに思えてかなり驚いた。
まるで、宮崎勤の犯罪の時のオタク叩き「ロリコン同人誌=性犯罪」や最近の著作権問題
「二次創作=著作権法違反」のあの批判そのもののようだ。
ソロモンがPRBの中であまり目立ってこなかった理由は、彼がまずPRBの第二世代である事、
先輩に並外れてアグレッシブな天才がいる中で、明確に自分のスタイルを打ち出すのに躊躇し、
戸惑った所にあるかもしれない。
そういえば、漫画家の友人づてに「AKIRA」の大友克洋がデビューして後、あれをこえる物は描けないとして後続の新人が出づらかったそうだという話を聞いた事がある。
先輩達の影響下にありながら、自らのスタイルを強く打ち出すのはなかなか困難なものだ。
晩年のソロモンの作品の多くは、貧しさから、素描が殆どである。

そして、上の絵のように、「自分と自分の魂」を扱ったものが多くみられる。
旧約聖書を画題にした時代や、イタリアを旅して青年の天使像を描いた頃にはあまり見られなかったが、
晩年に近づくにつれ、自分ともう一人の自分というテーマが多く見られるようになる。
この二重人格的なテーマは、ソロモンが出版した散文詩「眠りに現れた愛の幻影」の中にも、導き、問いかける者として登場している。
また、特徴としては全身像よりも人物の頭部のみ、特に寄り添う二人の人物の頭部のみが多くなり、
明確で具体的な背景は無くなり、ルドンやモロー、あるいはムンクの絵のように象徴性を増していく。
象徴ほどに心理学的な芸術は無い。
とどのつまり到達したテーマは、もしかしたら自らの癒しだったのかもしれない。
もちろん、ディケンズらの言う通り、それは商売のため、誰かのために正義をもって描かれたものではない。
しかし、あえて大衆におもねらない作品である事で、ソロモンは精神性の高さを保っている。
マイノリティーに徹した作品が意義を持つか持たないか。ディケンズならどう言うだろう。
私に言えるのは、混沌から薔薇のように咲こうとする精神の価値に気づく者は、極めて稀だという事だけだ。
さて、英国の大衆文学といえばディケンズ
「オリバー・ツイスト」や「クリスマス・キャロル」で有名なチャールズ・ディケンズは、ソロモン達の時代、もっとも多くの人々に愛され、道徳的で善いと評価されたベストセラー作家だった。
そのディケンズは、同じように道徳的で保守的な詩人ブキャナンと共に、PRBを酷評する。
ディケンズ達の側に立ってみれば、ゴシック・リバイバル、なんでもありを唱える彼らは
悪の温床になり得るいかがわしいものと感じたのではないだろうか。
多くの者は貧しいが善良で道徳的で平凡、そんな社会の「中」で活躍していたディケンズらにとって
PRBといえば過激で退廃的な、アウトサイダーなのである。
紳士淑女諸君のために仕事をする彼らに、犯罪ギリギリのPRBは野獣に見えたかもしれない。
ブキャナンは「自らの欲望のみの作品で、他人を喜ばそうとしない。しかもパクリだ」
と批判している。
ディケンズは「常識はずれ。大衆にはこういう幼稚な連中の反抗心を展示させるのをやめさせる権利がある」と「タイムズ」にコメントしている。
私はブキャナンらのこの批評が、日本のオタク同人誌への批評そのものに思えてかなり驚いた。
まるで、宮崎勤の犯罪の時のオタク叩き「ロリコン同人誌=性犯罪」や最近の著作権問題
「二次創作=著作権法違反」のあの批判そのもののようだ。
ソロモンがPRBの中であまり目立ってこなかった理由は、彼がまずPRBの第二世代である事、
先輩に並外れてアグレッシブな天才がいる中で、明確に自分のスタイルを打ち出すのに躊躇し、
戸惑った所にあるかもしれない。
そういえば、漫画家の友人づてに「AKIRA」の大友克洋がデビューして後、あれをこえる物は描けないとして後続の新人が出づらかったそうだという話を聞いた事がある。
先輩達の影響下にありながら、自らのスタイルを強く打ち出すのはなかなか困難なものだ。
晩年のソロモンの作品の多くは、貧しさから、素描が殆どである。

そして、上の絵のように、「自分と自分の魂」を扱ったものが多くみられる。
旧約聖書を画題にした時代や、イタリアを旅して青年の天使像を描いた頃にはあまり見られなかったが、
晩年に近づくにつれ、自分ともう一人の自分というテーマが多く見られるようになる。
この二重人格的なテーマは、ソロモンが出版した散文詩「眠りに現れた愛の幻影」の中にも、導き、問いかける者として登場している。
また、特徴としては全身像よりも人物の頭部のみ、特に寄り添う二人の人物の頭部のみが多くなり、
明確で具体的な背景は無くなり、ルドンやモロー、あるいはムンクの絵のように象徴性を増していく。
象徴ほどに心理学的な芸術は無い。
とどのつまり到達したテーマは、もしかしたら自らの癒しだったのかもしれない。
もちろん、ディケンズらの言う通り、それは商売のため、誰かのために正義をもって描かれたものではない。
しかし、あえて大衆におもねらない作品である事で、ソロモンは精神性の高さを保っている。
マイノリティーに徹した作品が意義を持つか持たないか。ディケンズならどう言うだろう。
私に言えるのは、混沌から薔薇のように咲こうとする精神の価値に気づく者は、極めて稀だという事だけだ。