スウィンバーンの没後から来年で丁度100年に当たる。
すでに、同性愛は禁じられたものではなくなった。
ゲイのサイトなどあまたあり、日本でもBLと称する男性同性愛を扱った作品は多いだろう。
しかし、スウィンバーンもソロモンも、どちらも最初から同性愛者であり
子供ができないのを逆手に、ただ性的な快楽に耽るというものでは無かった。
たとえ彼らが、周囲の大人達からエロティックな遊びを指導されたとしても。
ラファエル前派は、ラファエル式である事を最良とするアカデミックなやり方に反抗した。
しかし、ルネサンス様式の全てを否定したわけではない。
彼らが唱えたのは「ゴシック・リバイバル」であった。
では、ゴシックとは何か。
彼らが憧れたゴシックとは、美のためにあらゆる自由を許す
「~は~でなくてはならない」「~であるべき」という規範への抵抗もしくは
悪徳をも世界の中に取り込む、なんでもありの懐の広いものだったのだ。
ゴシック、すなわち中世には、狂人は狂人ではなかった。
社会的規範から疎外された者が狂人と名付けられる。
ならば、取り込むキャパを広げず除外し続ける限り、狂人は増え続けるではないか
そう言ったのは20世紀後半の哲学者フーコーだった。
フーコーもゴシックには興味を持っていたようだ。
今日の日本のポップ・カルチャーにおいて「ゴス」が注目されるのは、
それが、中世やゴシック・リバイバル同様、厭世感(死への憧憬)と共に
禁止するキリストではなく何もかもを許す聖母マリアの慈悲や、
孤独に、そして社会に対する背徳に同調してくれる悪魔的なものに惹かれるからかもしれない。
中世の美とは、女性的で受け身である。癒しの優しさを持っている。
ただしーーーー
私は混沌への憧れの中で、何故二人が共に惹かれあったのか
そして何を目指していたかを知る事に価値があると思う。
確かに、同性愛者である事は当時は狂気の一つであった。
しかし、何もかも内包する事を許す、ゴシック・リバイバルという大きな卵は、
実はその狂気はおろかゴシックを否定して成立したはずのルネサンスすら取り込んでいたのだ。
その結果、ゴシック復権を唱えると、否定すべきものとは「否定する者」になるのだ。
「ラファエル前派」が否定したのは、その定型くらいである。
唯美主義者達が言いたかったのは、「己の美的感性の為のみに忠実にあれ、自由であれ」という事だった。
かくして、彼らはルネサンス時期に復活したプラトン哲学すらも内包してしまっていたのである。
ソロモンはイタリアでフィレンツェの画家達から多くのインスピレーションを受ける。
ルネサンスについて説いていたペイターらと親交があったならプラトニズムに触れたのは間違いない。
ロイヤル・アカデミーが古典としたものの更に古典、原点であるギリシャ哲学に影響され、
一方のスウィンバーンはフランスで最先端中の最先端であった象徴詩に触れただろう。
(スウィンバーンの渡仏の年は、普仏戦争の年であり、詩人ランボオがパリに来る前年にあたる)
真に美しいものは何か。大切なものは何か
それは、プラトンが言うように神とつながる「精神」なのか
それとも、アリストテレスが言うように森羅万象「物」なのか
問い続ければ、もしかしたら混沌の中から何か道が見つかるのではないか。
なんとも皮肉である。
ラファエル以前に戻れと唱えたラファエル前派の一人であるソロモンから
他ならぬラファエルが描いた「アテネの学堂」のテーマに立ち戻るとは思わなかった。
その罪から覆い隠され、誤解された部分はあったにせよ
ソロモンの本質はプラトニズムにこそある、と私は思う。
すでに、同性愛は禁じられたものではなくなった。
ゲイのサイトなどあまたあり、日本でもBLと称する男性同性愛を扱った作品は多いだろう。
しかし、スウィンバーンもソロモンも、どちらも最初から同性愛者であり
子供ができないのを逆手に、ただ性的な快楽に耽るというものでは無かった。
たとえ彼らが、周囲の大人達からエロティックな遊びを指導されたとしても。
ラファエル前派は、ラファエル式である事を最良とするアカデミックなやり方に反抗した。
しかし、ルネサンス様式の全てを否定したわけではない。
彼らが唱えたのは「ゴシック・リバイバル」であった。
では、ゴシックとは何か。
彼らが憧れたゴシックとは、美のためにあらゆる自由を許す
「~は~でなくてはならない」「~であるべき」という規範への抵抗もしくは
悪徳をも世界の中に取り込む、なんでもありの懐の広いものだったのだ。
ゴシック、すなわち中世には、狂人は狂人ではなかった。
社会的規範から疎外された者が狂人と名付けられる。
ならば、取り込むキャパを広げず除外し続ける限り、狂人は増え続けるではないか
そう言ったのは20世紀後半の哲学者フーコーだった。
フーコーもゴシックには興味を持っていたようだ。
今日の日本のポップ・カルチャーにおいて「ゴス」が注目されるのは、
それが、中世やゴシック・リバイバル同様、厭世感(死への憧憬)と共に
禁止するキリストではなく何もかもを許す聖母マリアの慈悲や、
孤独に、そして社会に対する背徳に同調してくれる悪魔的なものに惹かれるからかもしれない。
中世の美とは、女性的で受け身である。癒しの優しさを持っている。
ただしーーーー
私は混沌への憧れの中で、何故二人が共に惹かれあったのか
そして何を目指していたかを知る事に価値があると思う。
確かに、同性愛者である事は当時は狂気の一つであった。
しかし、何もかも内包する事を許す、ゴシック・リバイバルという大きな卵は、
実はその狂気はおろかゴシックを否定して成立したはずのルネサンスすら取り込んでいたのだ。
その結果、ゴシック復権を唱えると、否定すべきものとは「否定する者」になるのだ。
「ラファエル前派」が否定したのは、その定型くらいである。
唯美主義者達が言いたかったのは、「己の美的感性の為のみに忠実にあれ、自由であれ」という事だった。
かくして、彼らはルネサンス時期に復活したプラトン哲学すらも内包してしまっていたのである。
ソロモンはイタリアでフィレンツェの画家達から多くのインスピレーションを受ける。
ルネサンスについて説いていたペイターらと親交があったならプラトニズムに触れたのは間違いない。
ロイヤル・アカデミーが古典としたものの更に古典、原点であるギリシャ哲学に影響され、
一方のスウィンバーンはフランスで最先端中の最先端であった象徴詩に触れただろう。
(スウィンバーンの渡仏の年は、普仏戦争の年であり、詩人ランボオがパリに来る前年にあたる)
真に美しいものは何か。大切なものは何か
それは、プラトンが言うように神とつながる「精神」なのか
それとも、アリストテレスが言うように森羅万象「物」なのか
問い続ければ、もしかしたら混沌の中から何か道が見つかるのではないか。
なんとも皮肉である。
ラファエル以前に戻れと唱えたラファエル前派の一人であるソロモンから
他ならぬラファエルが描いた「アテネの学堂」のテーマに立ち戻るとは思わなかった。
その罪から覆い隠され、誤解された部分はあったにせよ
ソロモンの本質はプラトニズムにこそある、と私は思う。