カンディンスキーもモンドリアンも、それが純粋に美しいと考えたからなのだろうし
理論で固められたその「美」について、一体誰が反論できるのだろう?
誰が何と言おうと、「美はこういうものだ。こうでなくてはいけない」と導き出された、
数学の答のようなもの前では、ミロのヴィーナスもお手上げかもしれない。

というわけで、別に否定はしない。
それでも一般の人にとっては、絵画の理論なんかよりもっと単純に「美しい」というものが存在している。
純粋に美しいものを求めて出した結論であったはずの美術作品を見て「わかりません」と言い
富士山や満開の桜を写真におさめつつ「美しい」と言うのである。

美の基準は確かに時代や場所によって変化はするが、精神の美しさや風景などは普遍的だ。

人は「美」というものも、親から子供に情報としてすり込まれ、何が美しくて何が汚いものかを
教えられて育っているのではないか。
実は、私は自分の息子を使って、とある実験をした。
自分には「気持ち悪い」として教えられた爬虫類を、息子には「可愛らしいね」と言って育ててみるのである。親が可愛いと言って育てても、子供は「気持ち悪い」と思うのだろうか。
結果、息子は爬虫類大好きになった。カエルもヤモリも蛇までも、可愛いものらしい。
美に対する感性のおそらく半分は、確実に親の教育である。
かつての日本人は忠臣蔵や義経を美しいとして涙してきた。少なくとも戦前まではそうだったようだ。

文化もまた、生物と同じように増殖し、繁栄をもくろむ遺伝子のようなものを持っている。
これを、文化遺伝子「ミーム」と名付けたのは、「利己的な遺伝子」の著者、生物学者のリチャード・ドーキンスである。
なるほど、美に対する考え方もまた、種の保存とよく似ている。

日本人は随分長い間、完璧に作られた美の遺伝子を、伝統芸能の中に保存してきた。
世阿弥によると、能の世界では、完璧に型をコピーし、理解し、自分のものと成した先にしか、新しい美の創造は許されていない。
このあたりが、最初から古い型を打ち破らねば新しい美は無いとしてきた西洋と異なる。

20世紀はもしかしたら、度重なる戦争や災害、犯罪などで、魔除けのようなものしか残らなかったメソポタミアのように、美術にとっては不幸な世紀だったのかもしれない。
ファシズム、二度の世界大戦、冷戦、テクノロジーの急速な発展に翻弄されながら
人は人として本来あるべき道を、本当に正しく見据える事ができていたのかどうか、それすら不安になってくる。壊さなければ創造は無いとする西洋的なものに対して、日本文化はどこまでも保守的であった。
日本人が日本文化の中に保存してきたものは、美的感性の遺伝子だ。捨て去るべきではないのである。

美しいものは、破壊と恐怖を背景にしていては生まれないのではないだろうか。
突然変異の全てが進化にはつながらないように、本物の進化とはかなり長い時間をかけて保存された後、
ようやく獲得されるようなものなのではないのだろうか。
私は、守り抜かれた伝統の美の中に、人から人へ、伝えなくてはならない人としての善きものを見る。
美は五感から生まれる。五感を通して、人を快感に導くものが美なのだ。
究極の美術理論がどうであれ、随分長い歴史の中、人はそういうものを美と呼んできたのである。

21世紀に、普遍的な美を取り戻すためには、まず戦争やテロといった恐怖だけは無くさなければならない。たとえ、芸術なんかのために政治家が戦争をやめる事はないだろうとしても。

その文化遺伝子の保存方法を知る日本人は、おそらくどの国よりも「和」に貢献できるだろう。