私の身近な友人に、絵画は洋画で、それも具象、ルネサンスや古典主義は好きだという人がいる。
「…は好き」というのは、それ以外にはあまり興味がないらしいのだ。
趣味の問題をとやかく言う必要は無いのだが、具体的に言うとアングル、ティツアーノ、あのあたりは好きらしい。
バーン・ジョーンズは好きだが、ギュスターヴ・モローは苦手。
シャガールは好きかと、シャガール展に誘おうとしたら、大嫌いだと言われた。
おそらく、この人にとっては写真と見紛うほどの正確なデッサンが大切なのであり、
美の表現の上で最重要と思っているものが、フォルムの正確な描写なのだろう。
イラストは好きだが、抽象絵画は苦手らしい。
芸術とは、まず感応である。
何かに心動かされた人が、そのエネルギーで作品を創る。その作品に触れた者は、心の動きを自分の中で再現する。その活動によって、芸術は永遠性を保ってきた事は明らかだろう。
近代絵画についての著書で、よく冒頭付近に掲げられているのが
「絵画は頭で理解するものではない。謎解きではない」というものだ。
何を描いているのかわからない、と見た者が言えば、
「これは心そのものなので、あなたが自由に想像する事で参加して下さい」
という、ちょっと高度でもっともらしいものが近代絵画を支えてきた。
おかげで、イラスト的なものは常に下位に見られるようになった。
しかし、私はもしかして「見てわかる」というのは、重要かもしれないと思うのだ。
見るというのは、認知である。視覚による情報とは、それが何であるかわかるところから入るのだから。
わけのわからないものに対して、人はいつも理解したいと望む。
そうすると、ギリギリの部分で具象を保っているダリはわかるが、カンディンスキーはちょっと…という事になるのかもしれない。
「あなたがわからないと言っても、それは絵画理論を学んでないからであって、誰がどう言おうとカンディンスキーの芸術性は高いといったら高いんです」
芸術家達は、そういうアカデミズムとは戦ってきたはず。アカデミズムと戦った後に獲得したのが、自由な表現であったはず。
しかし、今日、奇妙な事になってしまっている。
自由でなくてはならないという定型が誕生しているように思えてならない。自由な線、一見して何がなんだかわからないがエネルギーを喚起させるようなもの、そういうものを素晴らしいと呼べなければ、芸術なんかわかっちゃいない、だから見に来なくてよろしい。
(そうして仕方なく、見てわかって楽しいものがあるコミケに行くのである!)
まるでそれは、サルトルを掲げて学生運動をし、自己実現に焦がれた団塊の世代の遺産のようだ。
高度経済成長期に、前衛がもてはやされたのには、新築のビルのフロアに進歩的なもののシンボルとしてそれを飾る事と別にもう一つ、財産としての投資目的もあったようだ。
しかし、バブル以降も当時のように流行しているとはちよっと言い難い。
一つの確固たる地位は成したかもしれないが。
「未来小説」がレトロなものになったと同様、「モダン」と名をつけた古いものになってしまった。
芸術には「連関」というものもある。(簡単に説明していいものか、はたして私自身がこれをしっかりと理解できているのかも自信が無いのだが)人それぞれは単独で個性的でありながら、
「無意識の共通の概念」のようなもので、人は人とつながりを持つ。
このつながりをもっとわかりやすくしたものが作品の「主題」である。
その友人と盗作疑惑のマンガの話をしていた時、盗作とは何かの話になった。
絵柄がそっくりだが、中身が違うものと、中身は同じなのに絵柄が違うもののどちらが盗作だと思うか。
真にオリジナリティのある個性的な作品、といった場合は、表現手法や技術をさして言うのか
それとも中身なのか。
主題までが全くオリジナリティ溢れる場合は、理解されないという点で、人に受け入れ難いのでは無いか。
具体的な形象とその描かれ方と、頭の中にあって実際にはない想像
それだけでは作品は成立しない。
作品を成立させ得るのは、更にそこに「享受者」が加わった時だ。
「抽象なんかさっぱりわからないものを見るより、わかるものを見てうっとりできた方がいい」
という。
美は、快から誕生する。
もし、実存主義を否定した後、構造主義以降も芸術が思想的なものをベースにすべきと考えるならば、
まず画家のする事は、享受者と仲良くする事だ。
山口晃さんの浮世絵とSFをミックスしたようなユーモラスな日本画は、この問題に風穴を開けてくれている。
わかる人にしかわからないとする姿勢こそ、ブロンツィーノ好きのインテリが持っていたスノビズム
なのであれば、彼の描く世界ほど愉快なものはない。
「…は好き」というのは、それ以外にはあまり興味がないらしいのだ。
趣味の問題をとやかく言う必要は無いのだが、具体的に言うとアングル、ティツアーノ、あのあたりは好きらしい。
バーン・ジョーンズは好きだが、ギュスターヴ・モローは苦手。
シャガールは好きかと、シャガール展に誘おうとしたら、大嫌いだと言われた。
おそらく、この人にとっては写真と見紛うほどの正確なデッサンが大切なのであり、
美の表現の上で最重要と思っているものが、フォルムの正確な描写なのだろう。
イラストは好きだが、抽象絵画は苦手らしい。
芸術とは、まず感応である。
何かに心動かされた人が、そのエネルギーで作品を創る。その作品に触れた者は、心の動きを自分の中で再現する。その活動によって、芸術は永遠性を保ってきた事は明らかだろう。
近代絵画についての著書で、よく冒頭付近に掲げられているのが
「絵画は頭で理解するものではない。謎解きではない」というものだ。
何を描いているのかわからない、と見た者が言えば、
「これは心そのものなので、あなたが自由に想像する事で参加して下さい」
という、ちょっと高度でもっともらしいものが近代絵画を支えてきた。
おかげで、イラスト的なものは常に下位に見られるようになった。
しかし、私はもしかして「見てわかる」というのは、重要かもしれないと思うのだ。
見るというのは、認知である。視覚による情報とは、それが何であるかわかるところから入るのだから。
わけのわからないものに対して、人はいつも理解したいと望む。
そうすると、ギリギリの部分で具象を保っているダリはわかるが、カンディンスキーはちょっと…という事になるのかもしれない。
「あなたがわからないと言っても、それは絵画理論を学んでないからであって、誰がどう言おうとカンディンスキーの芸術性は高いといったら高いんです」
芸術家達は、そういうアカデミズムとは戦ってきたはず。アカデミズムと戦った後に獲得したのが、自由な表現であったはず。
しかし、今日、奇妙な事になってしまっている。
自由でなくてはならないという定型が誕生しているように思えてならない。自由な線、一見して何がなんだかわからないがエネルギーを喚起させるようなもの、そういうものを素晴らしいと呼べなければ、芸術なんかわかっちゃいない、だから見に来なくてよろしい。
(そうして仕方なく、見てわかって楽しいものがあるコミケに行くのである!)
まるでそれは、サルトルを掲げて学生運動をし、自己実現に焦がれた団塊の世代の遺産のようだ。
高度経済成長期に、前衛がもてはやされたのには、新築のビルのフロアに進歩的なもののシンボルとしてそれを飾る事と別にもう一つ、財産としての投資目的もあったようだ。
しかし、バブル以降も当時のように流行しているとはちよっと言い難い。
一つの確固たる地位は成したかもしれないが。
「未来小説」がレトロなものになったと同様、「モダン」と名をつけた古いものになってしまった。
芸術には「連関」というものもある。(簡単に説明していいものか、はたして私自身がこれをしっかりと理解できているのかも自信が無いのだが)人それぞれは単独で個性的でありながら、
「無意識の共通の概念」のようなもので、人は人とつながりを持つ。
このつながりをもっとわかりやすくしたものが作品の「主題」である。
その友人と盗作疑惑のマンガの話をしていた時、盗作とは何かの話になった。
絵柄がそっくりだが、中身が違うものと、中身は同じなのに絵柄が違うもののどちらが盗作だと思うか。
真にオリジナリティのある個性的な作品、といった場合は、表現手法や技術をさして言うのか
それとも中身なのか。
主題までが全くオリジナリティ溢れる場合は、理解されないという点で、人に受け入れ難いのでは無いか。
具体的な形象とその描かれ方と、頭の中にあって実際にはない想像
それだけでは作品は成立しない。
作品を成立させ得るのは、更にそこに「享受者」が加わった時だ。
「抽象なんかさっぱりわからないものを見るより、わかるものを見てうっとりできた方がいい」
という。
美は、快から誕生する。
もし、実存主義を否定した後、構造主義以降も芸術が思想的なものをベースにすべきと考えるならば、
まず画家のする事は、享受者と仲良くする事だ。
山口晃さんの浮世絵とSFをミックスしたようなユーモラスな日本画は、この問題に風穴を開けてくれている。
わかる人にしかわからないとする姿勢こそ、ブロンツィーノ好きのインテリが持っていたスノビズム
なのであれば、彼の描く世界ほど愉快なものはない。