図書館以外の文化施設は無駄だと言いきった橋下知事の意見を、皮肉たっぷりに「ごもっとも」と思ったのは私だけだろうか。
 かのオスカー・ワイルドは芸術とは一切無駄なものだと言いきった。
ただし、ワイルドは逆説の得意な作家であり、彼の芸術論ほど純粋に芸術至上主義的なものはそうそう見当たらない。
「時」を証明できるものは文化活動だけだ。橋下氏はおそらく、弁護士としての活動の中で、幾度となく知識と言語に救われたのだろう。府の財政が、そこまでピンチだというのを強調したかっただけなので
揚げ足取るのも大人げないとは思う。
 しかし、言語活動だけが人を救うものではないし、もちろん言葉のみが表現であるとは限らない。
文化とは、この世で人の存在と時間について教えてくれるものだ。
 丁度いい。美を芸術の台座に据え直すべきだと私は言った。それなら、美とは何なのか、それを語っていく前に、美とは無駄か、無駄でないか、それについて考えてみようと思う。

「友がみなわれよりえらく見ゆる日よ花を買ひ来て妻としたしむ」
という石川啄木の歌がある。
 さて、あなたは啄木の買ったこの花を、「金がないのにまったくの無駄遣いだコノ野郎」と言いきれるだろうか。
 そんな事をしているから啄木は貧乏で敗者なのだと嘲笑できるだろうか。
 それとも、啄木の感じていた事が心に沁みてくるだろうか。もしも何か感じたのなら、それは果たして無意味なのだろうか。
(啄木の生涯についてはここでは割愛するので、念のためご存知無い方はWikiのリンクをご参考に)
石川啄木

 以前、某美大でちょっとした事件があった。学生が提出するために廊下に出しておいた作品が、朝丸々消えていたのだ。探しまわった挙げ句、それは掃除の人が粗大ゴミと間違えて持ち去ったのだと判明した。
 笑い話のような事実である。(実際にゴミを使ったアートはいくつか試みられている。それはそれで面白いものだとは思う)
 学生にとっては作品だったはずの物が、掃除夫にとってはただのゴミである。
 知人の抽象画家の披露宴で、司会の女性は「何の絵か私どもにはわかりませんが」という、美術関係者からは思わず苦笑が漏れる解説をしていたが、これもまた確かに、一般の人にとってはごもっともな事だ。だとしたら、現代美術館などは、何を意味しているものかその存在自体、さぞかしわからない物だろう。

 美が主観的なものに根ざしている限り、要か不要かも主観的なものなのだ。

 これほどまでに多様化した世の中では、一つの美の概念で「これが美」と言いきる事はすでにできなくなっている。「これは美しいものですがこれは醜いので捨てて下さい、無駄です」というのは、個人個人で異なるものだ。
 ならば、「こういうものこそが美である」と言いきらなければよい。
美に対する考え方そのものを、もう一度洗う必要があるかもしれない。

 かつて、美術を一般の人にとって身近で有益なものにする、という考え方は、何度もあった。
 例えば、宗教画や肖像画は、美の本当の意味を探る後世の画家達がさんざん毛嫌いして反発したかもしれないが、あれはあれで人にとっては有益だっただろう。アカデミックなものに反抗する者や、写真が肖像画にとってかわってからは、ウィリアム・モリスのアーツ・アンド・クラフト運動やユーゲントシュティル、バウハウスあたりもそれを試みた。
 日本では襖や屏風に絵を描いてきたし、浮世絵が流通していた。現代なら誰かが主義主張の音頭を取らずとも、ネット上で、あるいはコミック業界で、そういうやりとりは行われてはいるだろう。日常の中にとけ込んでいるし、わざわざここで取り上げなくても一見、上手くいっているようには見える。

 しかし、今、わざわざ美について再考しようとするのは、形式と物にあふれかえった世の中で、土壌があらゆるものを含んでいてもよい場合はそれで許されるが、一旦、合理化に照らし合わされるや、「不必要、無価値」と判断されたものは、抹殺されてしまう危険があるからだ。
 どんなに美しい仏像でも、イスラム原理主義者は壊す。戦時下ではどうだろう。上に書いたバウハウスを閉鎖したのはナチスであった。
 だからこそ、私達は知らねばならない。人が人らしさを失ってはならないと思うからだ。
 表現とは何なのか、美とは何で、創作活動とはどういうものなのか。本当は何が正しいのか、本当に必要なものは何なのか、それは人にとってどう作用してきたのか。

 多様化した様々な形式と、先代がこだわったオブジェについての考え方を否定せず、なぜ人にとって美が必要かを少しずつ解いて行きたいと思う。

 人は芸術を美しいものと感じる時、絵の具の塊や音の波長の長さ、文字の印刷の解像度を見ているわけではない。その向こう側に存在する幻を見ている。
 では、それが無駄かと問うならば、ワイルド以上の言い方は無いのではないか。
 芸術とは、なんとまた「悲しき玩具」である事だろう。

 次回は、共有イメージとスピンオフ作品について触れてみる。