訃報が飛び込んできた。市川崑監督が亡くなった。

手元に今、「"芸術"が終わったあとの"アート"」という本がある。
松井みどり著。朝日出版社。
市川監督のあの映像美がはっと浮かんで、私自身はこの本を読んで以降、考えていた疑問についてちょっと道のようなものが見えた気がする。

大阪・心斎橋の壁のラクガキは「アートです」と主張しているにも関わらず、「迷惑だから消してくれ」と言われて問題を起こしている。
知的障害者が黙々と(おそらく商売のためではなく)描いた作品が、アメリカで高額取引されている。

私は、心斎橋のラクガキは、作者がアートだと主張する限りはアートであるとしか、今の現状を思うと、言えないと思った。無論こうなってしまったのは彼らの責任ではない。
彼らはそれが「アート」と信じている。型破りな事も含めて、主張こそが表現であり、表現こそアートだと。
楽しいならそれが一番だ。そして、誰もが、他者の影響(ストレス)を受けずに自分の世界に没頭する事と、それを主張する事は楽しくてたまらないだろう。
だが、楽しいだけの全てを芸術と呼べるかというと、そうではない。

素晴らしいかどうかで価値を判断するというのなら、一生懸命描かれたものは、全て素晴らしい。
子供の描いたものも、もちろんミケランジェロも、創るという事自体が素晴らしい。
(売れるかどうかはおいといて)
そして、単なる思いつきでも、ハッとさせられたならそれは素晴らしい。

要するに、全ては素晴らしい…となってしまう所に、混迷の原因がある。
一体何故、何が美であるかの論争をやめて、皆鑑賞者に逃げたのか。
真実なんて一つじゃないと言った哲学者達のせいなのか。
裏を返そう。どこにも基準などありはしない。気に入れば気に入る、気に入らなければ気に入らない。
つまり、批評する側がネガティブになれば「全てくだらない」のである。
基準は必要ではないかもしれない。
しかし、何故、芸術はその羅針盤まで捨てなくてはならなかったのか。

この本は、ポストモダン以降の「アート」を学ぶにはもってこいの本で、わかりやすいし面白かった。
多様化。定義と世界観の多様化。
ーーありとあらゆるものを、芸術と呼べるようになった現代、芸術は死んだと言われて久しいが、死んだその「芸術」とは何だったのだろうか。

昨年、バレエの振り付け師モーリス・ベジャール氏が亡くなったが、ベジャールや市川監督はそれを持っていた。
老いて、混迷の世を去って行く芸術家達が守り通してきたものは何だったのか。
「芸術」はどうして「アート」とは違うのか。

答はこんなにも明確な一本道だったではないか!

つまり、構造主義から後の「アート」とは、自己表現=芸術と考えているわけだ。
一見、自己表現=芸術としてアタリマエなのだが、ここを疑ってみる必要がある。
これは、実にアメリカ式の考え方だ。
西欧、それも特にアメリカでは、自由である事と自己表現は、美しい事なのだろう。(私は純粋に日本人なので違っているのかもしれないのだが)
それゆえ、自由に感性を表現できているものこそが美なのかもしれない。
しかし、本当にグローバルであるというのは、アメリカ式が全世界の考え方の覇権を握る事ではないと思う。
いくらアメリカの批評家が太鼓判を押したものが大売れするからといって、容易く追随しなくてもよいではないか。アメリカで高く買われたから、じゃあ日本でも、その他の地域でも高く評価されないといけないなどと言うのは、愚かでしかない。

芸術とは何で、どういうものだったのか、今、何が死に行くのか
我々は、それをもっとはっきりと知るべきだ。
「芸術」とは「美」の表現なのである。そして、かつてそうだったのだ。

表現されるものの全てが、たとえ「アート」と呼ばれるようになっても、
「芸術」への一本道は、それが「美」であるかどうかなのだ。
「アート」は、あまりにも美について無頓着すぎた。
市川監督やベジャール氏が持っていたものは単なる「自己表現」でないのは明らかだろう。
それは、己の信じて違わぬ「美」の表現に他ならないのだ。
「美」の表現である限り、どんな手法であってもそれは芸術である。
21世紀はそれを再認識すべきだ。

では、「美」とは何か?
は、次回へ続く。