作品は作者が描き終えた時が完成なのではなくて
誰かに愛された時に完成する。
ただし、「世間で認められた時」ではない。時空なんか超えていい。
とにかく誰かに、愛された時だ。
正式に有名画家の作品も扱う画商というものでは無かったけれど、私は小さいギャラリーで仕事をしていた。
額縁販売をしながら、無名の画家の絵画も置くというかんじだった。
昼間、暇そうなお客さんがなんとなく入ってきては、しげしげとながめて帰る。
それが普通で、たまに接客があるとすると以下の如し。
☆額装を頼む人(孫の描いた絵です…とか)
☆有名画家の絵葉書かカレンダーを置いていたので、それを買う人
☆知人の新築のお宅に飾るちょっとした絵が欲しい。
画家の方は、いっぱしの画家気取りだ。もうだいぶ高齢な方が
「僕の絵はそこらの絵とは違います。まあ20万はくだらないはずです」
と、しかしどうみてもパクリ…な絵を得意げに掲げて持ってきた事もあった。
このじいさんは、お店の額や画材の方ではお得意様(お金持ちv)なので
機嫌をそこなわぬよう、ほめそやさなくてはいけなかった。イヤだったけど。
自己満足とあの自信…。それは、一枚の絵を制作する過程では
確かに完成された、観念と自己との「閉じた世界」にあるものだ。
誰もが、自分の世界は最高であり、訴えたいエネルギーはある。
泣きわめく赤ん坊にすらそれはある。
外と上手くやれない部分が人を創作に向かわせる事はあるのだろうけど
再び、作品は外に、人の前に出なくてはいけない使命を背負っている。
どんなに画家が狂気の渕で、訴えたい全てを画布にぶつけたとしても
…お客さんが望むのは、新築に飾られる絵なのだ。
穏やかな色彩の水彩画は売れる。ちょっと華やかで楽しいかんじのデザイン画風のものなら、抽象でもいける。ポップアート系は人気だった。
問題はむしろ…
ドロドロと魂の混沌をぶつけたような作品。なんかの理論に基づいた作品…。
芸術的である事は、普通のご家庭のリビングからはなんて遠いのだろう。
人物画(裸婦)も、飾るためにはあんまり売れない。家主を描いたものなら別だろうが。
ウチは有名画家のは一枚だけ非売品のしかなかったから
投資目的で買うお金持ちはいなかったし。
庶民と、日曜画家相手だったから余計にそう思えたのかもしれない。
受け入れられる事ばかり考えるのもどうかと思うが
営業販売の側から考えた。
画家と買い手の求めるものは一致しているべきなのかもしれない。
少なくとも、そういう絵は愛される。
受ける側というのは、無抵抗なものだ。
高度情報化社会では、下手すれば、主義主張にレイプされまくる状態になりかねない。
何かを求める権利は、創る側でなくて、受ける側に保証されなくてはならないのに
別に今セックス相手を求めてないのに不特定多数ランダムに送りつけられるエロサイトのスパムの数々のように、
あるいは聞きたくないのに聞かされるリサイクル業者のスピーカーの音のように
受ける側は常に、多様なハラスメントに悩まされている。
焦って今売れなくても残しておき、いつか誰かに出会う事はあるだろう。
だから、別にお客さんに媚びて売れ筋をやる必要は全くない。
自分と観念との、完成された世界に遊んでもかまわないと思う。
ただし、「何のために」を考えた時
それは、自分が何のために存在するかという事も含めて考えた時
無駄でありたくはないな、と思ったならば
画家はひたすら、世界の美しさに感動していてほしい。
「愛」という言葉が誰の口から消えてしまっても
言葉でない本物の言葉で、それを維持し、伝えてほしい。
外と作品世界を繋ぐ一本の道
それが「美」なのではないだろうか。
誰かに愛された時に完成する。
ただし、「世間で認められた時」ではない。時空なんか超えていい。
とにかく誰かに、愛された時だ。
正式に有名画家の作品も扱う画商というものでは無かったけれど、私は小さいギャラリーで仕事をしていた。
額縁販売をしながら、無名の画家の絵画も置くというかんじだった。
昼間、暇そうなお客さんがなんとなく入ってきては、しげしげとながめて帰る。
それが普通で、たまに接客があるとすると以下の如し。
☆額装を頼む人(孫の描いた絵です…とか)
☆有名画家の絵葉書かカレンダーを置いていたので、それを買う人
☆知人の新築のお宅に飾るちょっとした絵が欲しい。
画家の方は、いっぱしの画家気取りだ。もうだいぶ高齢な方が
「僕の絵はそこらの絵とは違います。まあ20万はくだらないはずです」
と、しかしどうみてもパクリ…な絵を得意げに掲げて持ってきた事もあった。
このじいさんは、お店の額や画材の方ではお得意様(お金持ちv)なので
機嫌をそこなわぬよう、ほめそやさなくてはいけなかった。イヤだったけど。
自己満足とあの自信…。それは、一枚の絵を制作する過程では
確かに完成された、観念と自己との「閉じた世界」にあるものだ。
誰もが、自分の世界は最高であり、訴えたいエネルギーはある。
泣きわめく赤ん坊にすらそれはある。
外と上手くやれない部分が人を創作に向かわせる事はあるのだろうけど
再び、作品は外に、人の前に出なくてはいけない使命を背負っている。
どんなに画家が狂気の渕で、訴えたい全てを画布にぶつけたとしても
…お客さんが望むのは、新築に飾られる絵なのだ。
穏やかな色彩の水彩画は売れる。ちょっと華やかで楽しいかんじのデザイン画風のものなら、抽象でもいける。ポップアート系は人気だった。
問題はむしろ…
ドロドロと魂の混沌をぶつけたような作品。なんかの理論に基づいた作品…。
芸術的である事は、普通のご家庭のリビングからはなんて遠いのだろう。
人物画(裸婦)も、飾るためにはあんまり売れない。家主を描いたものなら別だろうが。
ウチは有名画家のは一枚だけ非売品のしかなかったから
投資目的で買うお金持ちはいなかったし。
庶民と、日曜画家相手だったから余計にそう思えたのかもしれない。
受け入れられる事ばかり考えるのもどうかと思うが
営業販売の側から考えた。
画家と買い手の求めるものは一致しているべきなのかもしれない。
少なくとも、そういう絵は愛される。
受ける側というのは、無抵抗なものだ。
高度情報化社会では、下手すれば、主義主張にレイプされまくる状態になりかねない。
何かを求める権利は、創る側でなくて、受ける側に保証されなくてはならないのに
別に今セックス相手を求めてないのに不特定多数ランダムに送りつけられるエロサイトのスパムの数々のように、
あるいは聞きたくないのに聞かされるリサイクル業者のスピーカーの音のように
受ける側は常に、多様なハラスメントに悩まされている。
焦って今売れなくても残しておき、いつか誰かに出会う事はあるだろう。
だから、別にお客さんに媚びて売れ筋をやる必要は全くない。
自分と観念との、完成された世界に遊んでもかまわないと思う。
ただし、「何のために」を考えた時
それは、自分が何のために存在するかという事も含めて考えた時
無駄でありたくはないな、と思ったならば
画家はひたすら、世界の美しさに感動していてほしい。
「愛」という言葉が誰の口から消えてしまっても
言葉でない本物の言葉で、それを維持し、伝えてほしい。
外と作品世界を繋ぐ一本の道
それが「美」なのではないだろうか。