またあのコミケが開催されるわけだが、米澤代表が亡くなってもコミケは続く。
最近では、日本のメディアでもすっかり定着し、海外からも注目されたりしているが、80年代頃にはあった、アニメやコミック同人誌への偏見のようなものは薄らいできている。
80年代から90年代にかけては、ロリコン殺人事件だのオウム真理教事件だのがあったせいで、どこかアングラで反社会的なマイナーイメージがあった。アニメもコミックも、キッチュ(高等芸術ではない) とされてきた。

当事者であるオタク達が意識して作ってきたのか、それとも長く本当に求めてやりたかったものに対して、時代が追いついただけなのかわからないが、
90年代以降は、二次創作(パロディ、シュミラークル。原作に基づいた創作)は常に「著作憲法違反」と戦いながらも、それなりに確立されてきたようだ。

これについては、構造主義はやっぱり関係していると思わざるをえない。

モダニズム以降の西洋のアート界に本当に主体性、「表現」があったのかどうか。
構造主義をベースにした理屈っぽい「アート」は、既に作られたものに手をくわえる事も許した。過去の作品の構図をそっくりそのままにしてアレンジしたり、色を変えたりするだけでもアートとして成立させた。悪いコトバで言えばパクリアートなのだ。
既製品を扱うのは表現の一手段にすぎなくなった。

理由は何か。
結局人は、既知のものや既存のものを介してしか繋がれないし、表現したところでわかってくれない。
人はすでにある何かを通してしか意志疎通は不可能なのではないかという壁にぶちあたる。自分自身が全て決めてよい、という自由さをうたっていた実存主義の反動のように、なんだか冷笑的で無気力ですらある哲学の下で、「アート」は物の破片を追い求めるような状態になっていった。

構造主義の最大の欠点は、やはり主体性を失わせた事ではないか、と私は思う。
(なんとも偉そうだがそう思う)
しかし、ほんとぉぉぉぉぉに!
ほんとうにほんとうにほんとうに、主体性だの愛だのは無いものなのか?
好きなものにひた走るオタクや腐女子達を見ていると、
間違ってたのはそちらじゃないんですか? と言いたくなってくる。

一般人にはどーせアホだからわかりませんよ、というようなお偉いアートとは隔絶し、もう芸術なんか終わったという年上の批評家の嘆息もさしおいて、オタク業界はそれこそ「何と言われようが」趣味を貫いていたのだ。

そもそも、著作権の問題を語る場合、最も最初になされなくてはならないのは
「作品とは何か」と「作者とは何か」である。
論ぜられるべきは、どこが類似しているかではない。所詮五感を通して得られた判断によるものでもあるわけなので、無意識的なイメージの酷似の例はいくつでもある。
しかし、何故か日本ではその論議はあまりなされない。それよりお金が大事なのだ。

ちなみに芸術至上主義的な考え方の上では、作者はどこまでも透明で、霊感と人とを繋ぐパイプ役のようなものであり、自己主張を超えていなければならないとされる。
それは、「私」が「お金を稼ぐために」作った作品ではなく、「私の力を借りて、ただ純粋に導き出された闇の中の愛しい人」な…わけだ。
芸術は、「自己表現」ではない。優れた芸術は自己を超えた美を表現しているとされる。

そういう見地からいけば、芸術とは、美的感性のバトンリレーなのだろう。
文化遺伝子(ドーキンスという科学者が言った)というものがもし本当にあるのなら、
人は作品を心から理解し、愛する事で、そこにある美のバトンを受け取る。

だから、その純粋な活動に著作権法をつきつける事は、「結婚詐欺だ」というのにどこか似ている。
なぜこうも、頭のいい人達は純粋に愛を語れなくなるのかね。

闇の中の愛しい人に会いたくて、連れてきたくて、出したくて
というオルフェウスのような純粋さがなければ、いくら小賢しく表現したところで
結局「物」は「物」にすぎないだろう。
粗大ゴミとアートの区別がつかないようじゃ、世も末でアタリマエだ。

しかし、世紀末は終わった。
構造主義を経験した後の芸術は、再び人の中に戻る事を望むのではないか。
そんな気がしている。

アートとして認められる事がアートなのではない。
オタクと二次創作はまだまだ可能性を持っている。