【本音で生きて愛される方法】
ポンコツ社長 satoko様です。
恋愛・結婚・お金・子育て・仕事・起業・経営・人間関係すべてに当てはまる成功法則?をお伝えしていきたいと思います!
【経歴】
株式会社S.T.Unite 代表取締役 島聡子
1975年5月8日生まれの46歳(独身)
息子が18歳・娘が5歳のシングルマザー
最終学歴は高卒
【仕事】
『LaniOla』ラニオラという酵素風呂とエステのお店を六本木・目黒白金台・横浜・湘南で経営。
『Mile』マイレという婚活アドバイザーの事業。
『MamAina』マムアイナというQOL caféを2021年5月にオープン。
『LokahiMind』ロカヒマインドというセミナー・スクール事業をQOL caféにて展開。
会社を起業して現在14年目
ご来店してくださっているお客様はこの14年で23万人を超える
【生い立ち】
1975年5月8日PM06:09。第二次ベビーブームに乗って、当時28歳の母と41歳の父との間にとってもかわいい猿のような私が誕生しました。
私が生まれて2年後4年後に弟達が生まれました。
両親は共働きでした。ハートが強く勝気に育ったのは、弟たちと過ごした時間が長かったからだと思っています。
それと、厳格な父に厳しく育てられたこともとても大きな要因だったと思います。
当時、私たちは麻布十番の賃貸マンションに住んでおりました。しかし、どちらかというと貧乏寄りの家だったと感じていたので、ファミレスで食事をオーダーするときは親の懐を気遣ってしまっておりました。
大抵600円くらいの一番安くてお腹にたまりそうなチキンバスケットをオーダーしていました。
麻布十番のど真ん中に住んでいたので、周りは皆んな土地持ちや、どこかの企業のお偉いさん、町工場の社長さんの子供が私の仲の良い友達でした。
私の家は築40年以上のおんぼろ賃貸マンションでした。だから私は自分のお家にお友達を呼ぶときは同じおんぼろマンションの仲間たちだけでした。基本は、友達の家に遊びに行くようにしていました。
特に良く遊びに行っていたお友達の家は、麻布十番でも有名な焼肉屋さんを経営していました。
芸能人や著名な方たちが多く通っているお店だったようです。
その子のお家は自社ビルで一階の駐車場にはベンツやBMWなどの高級車が並んでおり2階、3階は賃貸にして、4階と5階が彼女の自宅でした。
ある日私がそのお友達の家に遊びに行った帰り際に、
『〇子のおさがりだけど聡子ちゃん、この靴持って帰って』と高級そうなブランドの靴をその子のお母さんからもらいました。
私は可愛いらしい靴をもらって意気揚々としておりました。しかし、家に帰る途中で自分の靴を見ると、踵のあたりと先っぽが擦り切れそうで今にも穴が開きそうでした。
そして泥だらけで汚かったことにびっくりしてしまいました。
『あ~やっぱり家はどちらかというと貧乏なんだな』と思った出来事でした。
父親はヤクザかと思われるような風貌でした。そしてその風貌にぴったりの性格でした。毎朝6時には私と弟達を起こしマンションの一階で縄跳びをさせ、毎晩日記もつけさせられていました。
毎日の日課である犬の散歩をさぼったり家のルールを破ると、女の私でさえぶっ飛ばされていました。
高校生になっても干渉がひどく、さすがに毎朝の縄跳びはなくなりましたが小学生並みの門限は健在でした。
そんな父親からの縛られた環境から早く脱したい、家から出たい!と強く思い続けていました。
小学1年生の時私は、学校の健康診断でアトピーとアレルギー性副鼻腔炎と診断されました。そこから皮膚科と耳鼻科通いが始まりました。
鼻炎の治療で鼻に刺される二本の薬のついた棒をさしている間のあの苦痛。それに耐える時間と涙が、今の忍耐強い私の精神力を養ったものだと感じています。
だからか!!!
妊娠中に怪しい怪しいと思ってたら、パートナーに本当に浮気されていました。
なんと2人も女性を部屋に連れ込まれてたのです。しかし、その発覚後も4年間娘のパパとの関係性をなんとかしようと忍耐強く(執着か?)色々耐え忍び修復しようとトライしていました。
その忍耐強さがこの小学一年生の時に養われたのかもしれません。
そして、
『治療をサボって鼻の奥にたまった膿がキャパを超えたら、鼻を切開して手術をするよ!』
といった医師の迫力におののいて、何としても病院に通い倒して治してやろう!という強い意思にも繋がりました。
だからか!!!
その浮気したパートナー(33歳)と出会った時に私は39歳だったのですが、ずっと子供が欲しいとせがみました。
彼との子作りを最優先に過ごした怒涛の8か月間がありました。
彼の意に反してる日であっても血眼になって馬乗りになりました。
なんとしても『彼との子供が欲しい』とその時は思っていたので性欲、精力が出る亜鉛やミネラルたっぷりの食事を毎日作り、お弁当を持たせておりました。
泌尿器科に通ってもらい精子の運動量を調べたり色々な努力も惜しみませんでした。
それは子供が欲しい!!!という私の強い意志で相手をも動かしたのです。
その強い意志から起こる行動のおかげで数か月後に、娘の妊娠に繋がったのでした。
私は幼少の時から目立ちたがり屋でした。
幼稚園児の時からリレーの選手や、裸の王様で主役の裸の王様(男)火の誕生の主役プロメテウス(男)に果敢に挑み、学級委員や生徒会長も進んで立候補し大役を努めました。
そんな学校での私の様子を見て、父はいつも
と誇らしげに言ってくれました。
それがとても嬉しかったんです。
小学校3年生の時にはガールスカウトとかボーイスカウトみたいな警察が運営する『少年団』に入りました。
その時行ったキャンプで私が近くにトイレがなく慌てて河原でうんちをしました。
それを家に帰ってから意気揚々と父に
『その時丁度ティッシュを持ち合わせてなかったから、手でお尻を拭いて河原で手を洗ったんだよ。』
と話していたら
『聡子はゴキブリ並みの生命力と精神力だな。世界が終ろうとしてもお前だけは生き残れるよ。』
と誇らしげにニッコリ微笑んで褒めてくれました。
それがとても嬉しかったんです。
17歳までの間、病院へ執念で通ったお陰で副鼻腔炎はほぼ完治しました。
アトピーはたまに出ていたのですが薬で抑えられるくらいになっていました。
その頃には『世の中はお金がすべてだ!お金さえあれば何でもできる!』という強い信念が生まれておりました。
フィリピン顔を武器に高校を卒業したと同時に、それから8年間も水商売にどっぷりハマりました。
父の私に対する厳しいしつけや息苦しいほどの干渉に嫌気がありました。
それで一人暮らしをしたかったのもありました。『お金さえあれば!なんでもできる。』という思考になっていたのだと思います。
周りの友達の家庭のように自分の欲しいものを直ぐには買って貰えず、父にプレゼンをしないと何も許可が下りませんでした。
お小遣いも決められた金額だけでは足りず、高校3年間は部活後にバイトをずっとしていました。
バイトで得たお金が自分の自由に使えるお金でした。
なんでも欲しいものが手に入る喜びをその時に知りました。
この快感が後のお金への執着に繋がったのでしょう。
私の最終学歴は高卒です。高校生に入学した頃は頭が良かったはずなのです。
しかし入学して暫らく経ってからは男と部活とバイトに明け暮れ、勉強はほどんどしませんでした。
その優先順位は数年経った時も変わらず、スポーツインストラクターになりたくて選んだ専門学校でも勉強はほとんどせず遊び狂っていました。
(手を大きく広げてるのが私です。)
同時期に専門学校に通いながらキャバクラでバニーガールのエスコートガールもしておりました。
19歳の冬、日本語しか話せず
『月極駐車場』のことを
『げっきょくちゅうしゃじょう』
と読んでいたほどの日本語のレベルにも関わらず、ニュージーランドへ英語の語学留学をしました。
『英語を話せたらカッコいいなぁ』という考えだけでワーキングホリデーの旅へ出ました。
あんなになりたかったスポーツインストラクターをすんなり諦め、専門学校も1年も経たずに辞めてしまいました。忍耐力のかけらもありませんでした。
1年後ニュージーランドから帰ってきたら、付き合っていた彼が同じバイトに新しく入ってきた1個下のバニーガールに手を出し浮気をしていました。
悲しさのあまり、その男の車をボコボコにして頭を丸めさせました。
その浮気男とは好きだったのでそのまま付き合っていました。
しかし、いつか鼻の穴を開けさせてやろう!と思っていたので別の新しい彼を見つけてからすぐに振りました。
ニュージーランドから帰国後はランパブ嬢となり、バニーガールの時よりも稼ぎ出したのでさらに派手でハレンチ(破廉恥)な女の子となりました。
指名を取り自分の時給を上げることに生きがいを感じ、全てのお客様への接客に磨きをかけました。
毎日の電話やメールでの営業を2時間はし、週6日仕事をしていました。
太客(お金持ちでエースのお客様)との同伴、アフター(お店の営業後のお食事や別店舗に遊びに行くなどのお付き合い)ありとあらゆる手段でお客様と接点を持ち指名につなげていきました。
そんな中同業でのきらびやかなお客様を持っていなかった私も、ついにホストデビューを果たします。
ただ、自分が水商売で稼いだお金をホストへ垂れ流しにすることはしませんでした。私の目的はホストの彼と付き合うことでした。
モーレツにロックオンした彼は、当時横浜で一番有名だと言われていたオーナーホストでした。
モーレツにアプローチをし、お付き合いをしました。
そしてそのホストの彼に、今度は私のお店に来てもらいお金を沢山落としてもらいました。
ランパブ嬢でしたがお客様とマクラ(夜のお供)をすることは決してしたくなかったので、昼間の姿があることを伝えておりました。
普段は『スポーツインストラクターをして子供たちに水泳を教えている。だから昼間は会えない。夜も早く帰らないと翌日の仕事に寝坊しちゃうから。』とか。
『あなたは特別だから大丈夫だけど、昔ストーカー被害に遭って男性恐怖症なところがあって。』と少々本来のキャラからは考えもつかないような恐怖症を持ってるランパブ嬢の設定でした。
だから、本物の太客以外とは同伴はしてもアフターをお断りをしていました。
夜の仕事も、最初にバニーガールのエスコートガールから始まりましたが、ランパブ嬢、キャバ嬢、クラブ嬢と転々とお店も雰囲気も水っぽさのプロの貫録を増して変わっていきました。
その頃から、また別の新しい彼ができたのでその彼の家で寝泊まりしていました。
自分の家には昼間洋服を着替えに帰ってくるだけとなりました。
22歳の頃、父が数年前から間質性肺炎という難病になってしまっていました。80キロくらいあった体重が20キロ以上痩せてしまってました。
あんなに怖くて厳しい父の弱々しい姿を見ることが切なくてやりきれませんでした。
そして父が余命3か月と宣告されました。
私が23歳になった年の10月28日。父が64歳になったばかりで亡くなりました。
最期は病院で呼吸困難で苦しんでいたらしく、モルヒネを打ち意識が混濁していたことを聞きました。
父が苦しんで死に直面していた頃、私はそのことを知る由もなくキャバ嬢としてお酒を飲みながら愛想笑いをしてお客様の接客をしていました。
あんなに干渉され厳しくぶっ飛ばされ、だから怖くて、父が嫌いだったはずでした。
だけど時折誇らしげに私の事を褒めてくれ目を細め微笑む父が、本当は好きだったことを思い出しました。
友達も少なく他人を信用しない父でした。家族だけを愛し
『家族は必ず俺が守る!』
という強い信念のある父を尊敬もしていました。
そんな父を本当は私も心の奥底では誇らしく思っていました。
24歳の頃私はお店でトップで在り続け自信を持っていました。
元々の負けず嫌いが高じて、1位以外はありえないとトップを揺るがされることなく突っ走ってきました。
しかし、その順位を脅かされることが起こるようになりました。
10代の入ったばかりの女の子が太客を捉まえ、一度の会計で200万円を使わせていたのを見て自信を失いました。
24歳のオバちゃんだともうダメなのか?と悩んでいました。(今の46歳の本気のオバちゃんになった私からしたら、小さな悩みでした。)
そろそろ夜の仕事への限界も感じつつも
『負けたくない!』その一心で週に6日の出勤と同伴を欠かさず継続し、常にナンバーワンでお店に君臨していました。
しかしトップを維持し続ける事の大変さを感じていた頃でもありました。
(※10代の若い女の子は…2か月後にすぐ辞めてしまい、他のお店でおっぱいを出していました。)
25歳になった私は、夜の仕事で自分の店を持つまで極めるか?それとも昼職に転職するか?真剣に考えるようになりました。
『今、昼間の仕事にシフトしなければ、一生朝早くから起きて日の目を見る生活ができない。このままお酒を飲まないとできない仕事を永遠に続けていくのか?』
と自分に問うようになりました。
お酒を飲まないとできない仕事が嫌になりました。人並みに結婚して子供も3人は欲しいと思い描いていました。
30歳になっても、40歳になっても50歳になっても、お酒を飲みながら男の人に媚びを売る仕事をずっと続けることが嫌でした。
自分の大切な家族と毎晩夕飯時の団欒を楽しみたいと願うようになりました。
夜の仕事で関わってきたVIPで成功されてるお客様たちを見ながら、昼間の仕事で成功したいという想いは一層高まっていきました。
そして、私は8年間続けてきた夜の仕事を辞めました。
26歳からは不動産屋さんの営業、光通信での営業、りそな銀行の渉外課で投資信託や保険の営業と、転職を続けました。
学歴がなくても大丈夫だと思ったからか、水商売で得たスキルを活かせるからか、人と接する仕事が好きだったからか、何かを売って利益を会社にもたらし歩合(評価)を得る。
高額な給与を頂くという営業職を好みました。
昼間の仕事への転身から2年後の27歳。
私は結婚し28歳の時に息子が生まれました。
『結婚式でのひな壇はさとまんだけでいいよ。俺は後ろの端っこでいいから。』というような奥ゆかしく
『アメックスの家族カードをさとまんも好きに使っていいよ。』という優しさと懐の深い旦那様とぬくぬくと暮らしていました。
そして私はそんな彼の優しさに甘えて、アメックスの家族カードを渡してくれたのをいいことに、1か月で100万円も使ったこともありました。
それでも怒らない優しい旦那様を段々とないがしろにしていくのでした。
『人が足りないから〇○ちゃんと飲みに行ってくるね~』と言っては外で遊んでばかりいました。
だけど飲みにいっても、友達といてもつまらなかったんです。
『なんだか主婦ってつまらない。』
ずーっとこのまま主婦で危機感無く暮らすことがとてもつまらなく思ってしまいました。
旦那様に家も買ってもらい、お金にも余裕があり、仕事もせず守られた環境に感謝すらなく、自分の存在意義を探すようになりました。
息子が4歳の頃。今となってはなぜそこまで旦那様にムカついていたのか思い出せないのです。
しかし、とにかく喧嘩をその頃はよくしていました。旦那様の1から10までが気に食わなかったのです。
仕事の後スロットや麻雀をしてから夜遅く帰ってくることも、息子の面倒をしっかり見ないことも、ビビってハシゴを上って電球を変える事もできないことも、購入した家でタバコを吸うことも。
旅行1つ決められないことも。彼に対して本当に『頼りにならない人』という思いが日々強くなっていきました。
今考えれば『それだけの事で??』と思います。なぜ離婚したいと思ったのか?
ただ、そこにはもう愛はありませんでした。一生この人と過ごすことはできないと思いました。
子供が後2人欲しいと思っておりました。しかし夜の営みもしたくありませんでした。
老後のお世話もしたくありませんでした。未来を彼とはもう描くことがその時にはできませんでした。
そして私が32歳の時に離婚をしました。
離婚後、私は銀行で働きながら色んな男性と付き合っては別れを繰り返していました。そんな中でも、一人だけ結婚したいと思って同棲までしていた彼がいました。
半年ほど一緒に暮らしていましたが、ある日。
『さとちゃんのことは好きだけど、さとちゃんとはもう、やっていけない』と言われ振られました。
自分では普通の女だと思っていました。しかし彼からは、夜な夜なふらふら遊びに色んな男といく信用の置けない女だと思われていたのだと思います。
ただその時は、彼に振られた事に人生最大の衝撃を受け自分に失望をしました。
何にも考えられず、何のやる気も出ず、悲しみに明け暮れました。
自分で新たな環境でのチャレンジを踏み出す気力を奮い起こせず実家に戻りました。
銀行も辞め、ニートとなりました。
急に一人ぼっちになり、外にほっぽりだされてしまったような感覚に陥いりました。
『なんて自分はちっぽけでどうしようもない人間なんだ。』と自分の価値がなくなったように感じました。
魂が抜けたバツイチ・シングルマザー、ニートを数か月つづけていました。
魂が抜けたまま、何のやる気も起きず泣いてばかりいました。
お腹も減らないのでベッドでボーっと本を読んで過ごす時間が増え、47キロあった体重も10キロ痩せてしまって37キロになりました。
床ずれまでできました。お尻や腰の骨が当たって体中が痛くなりました。
それでも本を読むか、眠るかのニート生活が続きました。
数ヶ月後、本で出会った座右の銘で
『逆境は己を磨く天与の機会』
という言葉に今回の出来事の意味を見い出しました。
『このままではいけない。息子を一人で立派に育てると決めたじゃないか!』
『男がいないと私は何もできないのか???』
『私には何の価値もないのか???』
いや違う・・・。
『私にはこの逆境を乗り越えるだけの力がある。』
そう心の中で言い続けました。
ニート生活に飽きてきて、そろそろ悲劇のヒロインにも飽きてきた頃でした。
仕事を始めようとベットから立ち上がりました。
沢山泣いて沢山悲しい思いをした事を息子や家族、友達に聞いてもらい吐露をし尽くしました。
だから話過ぎて既にネタが尽きてしまったのでしょう。ネタを探しに仕事をしようとやっと思い立ちました。
何かを始めるには、何もなくなってしまったZEROとなった今がチャンスだと思いました。
『一心不乱に仕事をするには丁度いい。』
そう思ってずっとなりたかった社長にチャレンジしようと思いました。
亡くなってしまった父が
『聡子はなんでもまずチャレンジしてみるから良いな』
『聡子はゴキブリ並みの生命力と精神力があるからな。世界が終ろうとしてもお前だけは生き残れるよ。』
と誇らしげに言ってくれた言葉が、その時の私のヒトカケラの自信となりました。
私には頼るパートナーがいなくなってしまいましたが、守る息子がいました。
その息子の為にも自分を信じ、起業をしようと決意しました。
『息子が病気になっても、私が社長のお店だったら誰にも迷惑をかけずに遠慮なくゆっくりと一緒に過ごせる。』
『亡くなった父に、今生きて輝いている私を誇らしく思って欲しい。』
そんな思いがお店をオープンする機動力となりました。
私に何ができるのか?ではなく
『私にはどんな夢があるのか?』
『私はどんなことをしたいのか?』
それだけを考えるようになりました。
そんな時父が病気で亡くなってしまったことが一番悔やんだことだったと思いだしました。
『父に私の息子をぎゅっと抱きしめてもらいたかった…。』
健康が人生の中で何よりも大切だという事を父の死で痛感していました。
だから健康を求め、健康を意識する人たちが集まるお店を開こうと思いました。
健康でいられることが一番幸せなことだと世の中の人に伝え続けて行きたいと思いました。
そうして、ラニオラを起業しました。
2009年6月20日34歳の時、私は一人でラニオラをオープンさせました。
水商売で貯めた自己資金で、内装を800万円かけてラニオラ1号店をオープン致しました。
オープニングキャンペーンと称して、当時、通常のご入浴料2980円を1000円にしました。
すると予約が毎日ほとんど埋まってしまいお客様を私ひとりで埋めまくる状態でした。
あまりにも予約が増え過ぎてしまって慌てて家族や友達にサポートしてもらいました。
3ヶ月間一度も休まずに私はお客様を埋めまくりました。
しかし、私には起業する際に夢ノートを書き綴り野望がありました。
『いつか上場したい!!』
高卒の私の突拍子もない野望でした。私を振った男を見返すためにも
『すっごい有名で彼から見上げられるような社長になりたい!』
『彼の会社にいつか社長となった私が登場して鼻の穴を大きく開けさせてやりたい‼』
そんな気持ちで『上場する!』と決めていました。
上場する手順も条件もメリットもデメリットも知らず
『株式上場しているんですよぅ~。』
と言えたらカッコいいと思っていました。
だから、家族や友達に困るたびに頼んでいる場合ではない。そう思い3日後にお店のガラス窓に
『求人!時給800円』と手書きで募集したのでした。
38歳の頃には、山あり谷ありでしたが気づいたら店舗も5店舗まで拡大していました。
スタッフさんは50名。
各店舗のmanagerは6名となって、扶養家族が大勢増えました。
順調に会社も拡大し、売り上げも伸びて行っていた中・・・
私の人生が大きく変化する出来事が起きました。
私が39歳の時でした。
現在4歳になる娘のパパと出会いました。
それが生きてきた中で、一番生々しく辛かった時期になりました。
彼は見た目も真面目そうで優しくおっとりしていて早稲田大学を卒業されていました。
ご両親は小学校の先生をされておりエリートコースを歩んできたようでした。
しかし、私と出会ったときは建築関係の【防水工事の日雇い労働者】を10年近くしていました。
初めて出会ったのは私の経営するラニオラという【酵素風呂】での面接でした。
ラニオラプラチナム店は目黒駅と白金台駅の丁度真ん中に位置するアンテナショップの大型店舗で、男性と女性が入れるお店でした。
初めての試みで
『男性スタッフを入れてみよう!』
と私がマネージャー陣と人事の担当に持ち掛けたのです。
心の奥底では、もしかしたらすっごいイケメンの男の子が入店してワクワクしちゃうかも!
と当時私には特定の彼がいなかったので、楽しみなイベントで面接を決行しました。
しかし、何人かの男性の面接をしましたが…。
すっごい大デブの巨大な子がきて面接時に既に汗をかいており、酵素風呂は熱くて体がもたなさそうと弱音を吐いておりました。
50歳で自称以前エステなどの経営も数店舗していたという男の人は、偉そうで気取ってる軟弱そうな人でした。
20歳のナルシストな筋肉馬鹿が来たので『若いし体力もあるし、ちょっとは頑張ってくれそう。』
そう思い採用したのですが、2週間もしないうちに『疲れる。』『きつい。』などと
色々理由をつけてほぼバックレ状態で辞めてしまいました。
(お前の筋肉は一体何の役に立つ為に鍛えてきたんだ!と思いました。)
どう考えても、どの方も私のタイプでは勿論なかったのです。
へっぽこの男性ばかりのお相手をしてたから高額の時給をもらいたくなりました。
殿方でしたので昔の癖がついでてしまい、それくらいのスーパー接待の面接をしてしまいました。
『ああ、無駄な時間を割いた』と思い、いい加減男性の面接をするのはもうお断りだな!と強く心に決めた時でした。
そんな矢先に、横浜で10年近く勤めて下さり信頼をおいているスタッフさんから、
『聡子さん、さきほど素敵な声の男性から面接のお電話が本店にありましたよ。32歳ですって♡声も素敵で礼儀正しかったから、その方を最後に面接されたらいかがですか?』と伝えられました。
『これが最後だ!』
と一縷の望みをかけて面接をしたら可もなく不可もなく、いやどちらかというと清潔感もあり好感も持てたので、その彼を採用しました。
決めては、私と同じ誕生日の5月8日だったからかもしれません…。
彼を採用して2か月後に私が手を出し、一緒にいる時間が増えました。
彼と私は年が7歳離れておりましたが、私の他愛もない話をいつもニコニコ聞いてくれていました。
ちょっとした愚痴も『うんうん』と頷いて静かに聞いてくれていたので、一緒にいる時はとても居心地がよかったのです。
彼の家にいるときは、いつもご飯を作ってあげて、お洗濯もしてあげて、毎日が楽しく心がウキウキふわふわしていました。
元々もう一人子供が欲しかったので、このタイミングで早く子供を作らないと間に合わない!という気持ちが強くありました。
彼の事を好きでしたし子作りをすぐにしたいと話しました。
大人しいし、自己主張もないし、私がやることに対して文句も言わず、いつも寄り添ってくれ、まじめで優しい人なので信頼もしていました。
一度お店のスタッフさんたちと会社の決起会でカラオケに行った時のこと。
『竜ちゃん(息子の名前)トイレ行く?』
と当時4年生の息子に彼から聞いてくれ、一緒にトイレに付き添ってくれたり、息子の傍に座って話しかけてくれてたのです。
そんな彼の優しさや配慮ある言動がとても嬉しかったのを覚えています。
お店のスタッフさんたちにも、彼は一人一人に気遣いある対応をしてくれていたので皆んなから好かれており、そんなところも頼もしいなぁと思っておりました。
順調にお付き合いは続き、子作りもしっかりしていた8か月くらい経った頃。
待望の赤ちゃんを授かりました。
しかし、お腹の中の子供が大きくなっていくにつれ、彼の言動が怪しいと思うような事が度々ありました。
私は彼が浮気をしているんじゃないかと思うようになりました。
最初に怪しいと思い始めたころに、彼が今まで持ってなかった謎の帽子(ハットの方)と黒のユニクロのピタピタパンツを履いて、少し浮かれた感じで出かけることがありました。
付き合ってから8か月間は私としか会っていなかったのに…そして友達の(と)の字も彼から聞いたことがなかったのに。
『友達とキャッチボールをするから今日は会えない』だの。
『先輩と飲みに行ってそのまま泊まってくる』だの、私との時間を優先的にとっていたのに、そういった謎の予定が度々入ってきました。
私の心の声は、『あなた友達いたのね良かった。』ではなく。
『浮気しているんじゃないか?』怪しすぎる行動だと確信していくのでした。
さらには謎の出張が増え、そのことから発展して喧嘩になりました。終いには『合鍵を返せ』と言いだしました。
極めつけは今まで私のお店の近くに住んでいた目黒の腐ったボロい築100年くらいの木造アパートから、
吉祥寺のちょっとお洒落な新築のコンクリデザイナーズマンション、オートロック式に浮かれて引っ越していきました。
そのころには険悪なムードが度々あり、新居の合鍵は勿論渡してもらえませんでした。
私が妊娠6か月に入った時の事です。
ずっと妊娠してから、彼は浮気しているんじゃないかと怪んでいました。
あの日あの時、黒い謎のハットを被って黒のスリムのピタピタパンツを履いて浮かれて出張に行くことが増えてから。
その時からあんなに楽しかった彼との時間が、段々とモヤモヤする時間となったのです。
彼の遅くなったラインのレスポンスはさらにひどい対応となりました。
今までは優しい文章と絵文字ですぐに返してくれていたのに、ヘンテコの無料のスタンプ一個だけになっていました。
もっとひどい時は2.3日未読で既読となって一安心していると、そのラインには返信も無く既読スルーをかます事も度々ありました。
そして、真実が暴かれる日がとうとうやってきました。
彼と4月のある晴れた日にお花見に行き、夕方からは彼のお家にいました。
ベットで一緒にゴロゴロしていた時に初めて聞いた彼の携帯の着信音。(※彼はいつも音無しバイブなし。)
なのに彼は音の鳴ってる電話に出ようとしませんでした。そうこうしているうちに暫く鳴り続けていた電話が切れてしまいました。
今までモヤモヤしていた私は即座に『なんで電話に出ないの?』
そう言うと彼は『えっ?友達だから。』と謎な事を言い出しました。
すかさず私は『友達だと言うなら電話でなよ。私がいるからって電話に出ないことや折り返さないことはおかしい』と食い下がって口喧嘩になりました。
口では私に勝てないと思ったのか、面倒くさいと思ったのか、彼はふてくされた顔をして無言のままシャワーを浴びに行きました。
そのシャワーに入っている最中に、もう一度電話が鳴りました。
普段は全く鳴らない携帯が又ピロピロプルプル鳴るのです。しつこいくらい鳴っているんです!ピロピロプルプル!
すぐさま彼の携帯を見ました。なんと名前が無い名無しの怪しいゴンベイ。『しつこい!!!』でも…。
それは神の思し召しだったのでしょう。即座に自分の携帯にその名無しの怪しいゴンベイ!を登録しました。
そうして翌日まで待ちました。朝は彼が寝坊し、慌てて先に仕事に行かなければならない状況となりました。
普段は一緒にお家を出るのですが、私に鍵を渡して彼が先に家を出ました。
神様が私への御慈悲で素敵な偶然を起こしてくれたのでしょう.…。
早速彼の部屋の家宅捜査をしたら、ものの1分で女性用のピンクのビオレのクレンジングと、携帯用のピンクの歯ブラシ、そしてコンドームとメンソールのタバコが見つかりました。
私たちは妊活をしてたのでコンドームは一度たりとも使用しませんでした。
だから見つけたときは数を数えました。
『4回か。よし。とりあえず昨日の名無しの怪しいゴンベイ!に電話をして確認しよう。』
そう思い、名無しの怪しいゴンベイ!に電話をしました。
案の定浮気していた女性でした。その女性からはいつ、どこで、何をどこでどんなことをしたのか?しっかりとヒアリングをして証拠を掴みました。
怒りに震え、信じがたい事実も解明され、心臓もバクバクして音が世界中に漏れそうでした。
信頼していた彼からの裏切りを知り、悲し過ぎて涙が止まらず大泣きしました。
ようやく落ち着いて涙も枯れ果てたころ、殺意すら湧いてきた私は女友達やお店のスタッフさんに彼が浮気していた話を電話で報告しました。
真実が暴けて点と点が線となって繋がりました。すっきりした感情を抱いたと同時に、悲しくツラい日々が始まりました。
『浮気するんじゃないか、浮気するんじゃないか』と数か月念じていたから叶ってしまった事実でした。
毎日泣いて、毎日モヤモヤして、今まで生きてきた中で一番長くつらかった時期だったと思います。
これから『娘が生まれる』という、とっても幸せな時だったはずなのに。
まさに天国と地獄。
彼とは結婚をしてなかったので、信頼できるパートナーもいない状況で一人で息子と娘の二人を育てながらシングルマザーとして生きていくのか?と不安と切なさでいっぱいでした。
ネガティブな感情に苛まれ夜も眠れない日々が続きました。
彼の裏切りに心の底から彼を見下し幻滅もしました。
同時にあんなに大好きで彼を信頼していた自分が哀れで泣きました。
それでもしばらくは彼と『別れる』という選択ができませんでした。
彼自身も『すべて自分が悪かった』と言い、関わった女性たちを清算し、一人暮らしをしていた浮かれた新築のコンクリデザイナーズマンションを解約して実家に戻りました。
そういった行動があったから私も彼を諦めきれず、ずるずると一緒にいる形となりました。
一緒にいるときに彼の携帯が鳴ると嫌な気分になり、携帯をいじっている姿を見ると不安な気持ちになりました。
ラインの返事が遅かったり一緒にいない日があると又女と会っているんじゃないかと疑ってました。
彼が浮気した事実がなかったことのように笑顔で私に話しかけてきても、以前と同じように明るく接することができませんでした。
彼が何か話しかけてきても『浮気をしたくせにもっと申し訳なさそうにしたり私に諂えばいいのに。』と心の中でいつも思っていました。
『こんなに私はつらいのに、何平然とし話しかけてくるんだ!』などと怒りと不満がありました。
一緒にいないと不安なのに、一緒にいる時間はイラ立ちと苦痛でたまりませんでした。
そんな情緒不安定な状況でしたから、妊娠していたのにも関わらず5キロも痩せてしまいました。
それでもなんとか臨月を迎え、待望のベビーが生まれました。
出産後も彼とのずるずるした関係を断ち切れず、一緒にいる事により安心感を得ようとしていました。
しかし心のモヤモヤはぬぐい切れないまま数年間は自己肯定感も下がり自分の事に自信が持てませんでした。
今までの私の思考のパフォーマンスを50%以上は下げてネガティブ全開な日々でした。
『産後すぐに痩せずに太った外観だから私は魅力がないんだ。』
『もう40歳のおばさんだからシミだらけで若い女の子のぴちぴちの肌には勝てない。』
どれだけ前向きになろう!私なら大丈夫!と心の中で思うようにしても、いつもダメなおばさんなんだとレッテルを張り、魅力のない自分で頭は支配されていました。
仕事でもプライベートでも私には何の価値もないから、何をしてもだめなんだと自信のなさが出てチャレンジすることも諦めていました。
友達からの恋愛の相談さえもいつも強気だった私が、浮気された私なんかのアドバイスなんて参考にならないと思い、黙って聞いてあげる事しかできませんでした。
息子や娘には不安やイライラから、八つ当たりをして辛辣な言葉を浴びせてしまったこともありました。
浮気されたくらいで感情もコントロールできない私が、母親としてこの子たちと3人だけでやっていけるのか?と悩んだりもしました。
『彼は私たちの事をどう思っているのだろう?』といつも悩みの種は彼の考えてる事がわからなくて不安になりました。
今ならあの頃の自分に即座にアドバイスを伝えてあげられます。
『今頭の中で質問していることほど無駄なことはないよ。』
そうなんです。
人が自分をどう思っているかなんて考えている時間ほど、無駄な事はありません。
どう考えたって相手の考えていることなんて全てがわかるわけがないのです。
『自分がどうしたいか?』
これがすべての答えです。
感情のままに生きてきて、やりたいように自分の人生を創造してきた私の答えです。
チョイスできる選択肢は沢山あるのだから、片っ端から思うことをやりたいようにやって生きてきたので、今までの人生で後悔はありませんでした。
そして、あの頃が良かったなどと過去を美化することもありませんでした。
要するに、私は『素直にさらけ出す正直な自分がカッコよくて好きだった』ことを思い出しました。
私が彼を好きになった。
私が結婚する・しないに関わらず子供が欲しかった。
私が彼の浮気を暴き白黒つけさせたかった。
私が彼を叩きのめしひれ伏せさせたかった。
そんな彼に裏切られたけど、それでも私は彼と一緒にいたかった。
感情の赴くまま彼に八つ当たりをしたり優しくしてみたり、心のつかえを伝えてみたり
時には彼との未来について話し合ったり…。
しかし、彼は私の思い描くような答えを結局最後まで出してはくれませんでした。
でもいいんです。
自分の思いを沢山伝えたから私には思い残すことはありませんでした。
ある意味彼に感情を常日頃出していたので、やり切った感は満載でした。
ある日の朝、ふと思い立ち彼との関係性をぷっつりと切り、自分の人生のストーリーを再構築していこうと決めました。
彼を断捨離した後は、モヤがかかっていた私の思考は日を増すごとにどんどん晴れていきました。
そして私の脳にもスペースができ、自分の未来に向けてワクワクするような明るい思考に切り替えることができました。
頭の中で繰り返し質問していた『彼と一緒に歩いていく未来』の答えは結局出なかったけれど
私自身の答えがやっと明確に出たのです。
『私は自分に自信満々でカッコ良く生きていきたい。』
『私は自分の人生を人に振り回されず幸せと感じて過ごしていきたい。』
『素直にさらけ出す自分が誰よりも大好きで、そんな自分を好きになってくれる人と出会いたい。』
『私を好きになってくれた周りの人達を、全力でサポートして幸せにしたい。』
そう決めたから、彼が私の人生に必要ないと結論が出ました。
そうして今、彼がいなくても幸せですっきりした日々を過ごせるようになりました。
実は、そうなるまで色々と心理学や脳科学などのセミナーへ行き沢山勉強をしました。
その中で出会った人達から色んなお話を聞く機会が多々ありました。
すると、自分の感情を押し殺している人達や人の顔色を窺って言葉を発言する人、あるいは自分の思いを言わない人。
こんなことを言ったら相手になんて言われてしまうだろう?どう思われてしまうだろう?
そんな人のことを考えすぎて息苦しい生き方をしている幸せそうじゃない人達を見てきました。
自分の思いや考えを伝えることに重きを置いてきた私はびっくりしました。
『言いたいことがあるなら言っちゃえばいいじゃん!』
と簡単に私は言ってしまっていましたが、
『自分の意見を言わない方がいい。』と答えを出してしまう習慣がつくと、自分の気持ちを感じることが無意味に思うようになっていくのでしょうか…。
『世間体はこうだから』
『一般的にはこうだから』
『みんながそうしているから』
『親がそうした方がいいといったから』
『これを言ったらその人から嫌われてしまうかもしれないから。』
そういう思いから、自分以外の人を基準にし言動を決めてしまう癖がついてしまいます。
しかし、自分の心が望んでいない行動をして、自分の心が望んでない結果を出して、果たしてそれが本当の幸せだといえるのでしょうか?
自分を幸せにしてあげる方法は自分を大好きでいる事。
大好きでいる為には自分の感情のセンサーを繊細に感じ、素直にさらけだして発信することだと思います。
そうすることによって、自分の心が軽くなりとても幸せで生きやすくなります。
私は『自分の望む通りの仕事をしたい』
そう思ったとき、経営者になることを選びました。
自分の心を大切に、思ったことを素直に伝えていくうちに、大切なスタッフさんと素晴らしいお客様に囲まれて仕事ができるようになりました。
時にはつらいことや厳しいなぁと思うこともありましたが、そんな心の内も正直にスタッフさんたちに話して分かち合ってきました。
自分の思い描いていた大きな夢を恥ずかしげもなく語り続け、気付けば店舗も5店舗となっていました。
子供とも毎日素直に向き合い、二人とも真っすぐに育ってくれ、今は私の良き理解者です。
時々息子とはぶつかることもありますが、それでもなんでも話し合い解決し信頼が結べている親子関係だと思います。
私はどこにいても素直に自分をさらけ出している自分が好きで、カッコいいと思っています。
そして正直な私を求めてくれる人たちと幸せな日々を過ごしています。
人生は一度きり。
自分のことを幸せにしてあげられるのは自分しかいない。
そう私は思っています。
だから。
『自分を大切にしたい、自分を幸せにしてあげたい。』
そう思う人たちに、こんな私で良ければ全力で愛情たっぷりのエールを送り続けたいと思っております。
現在46歳の私はというと…。
2013年に起こった3.11の震災もキツイ試練を会社全体で受けました。
2020年2月から少しづつ蔓延しだしたコロナウィルスには、ラニオラのお店は過去最大級の大打撃を受けました。
365日営業をしていたラニオラも、長期休業をせざる環境ともなりました。
残念ながら、自由が丘の店舗は7年間営業致しましたが、撤退を余儀なくされました。
しかし、こんな状況下ではありましたが、社長となり沢山の人達と出会ってきた経験が責任感や使命感を生み、私のハートをさらに強くしなやかにしてくれていました。
まさに『逆境は己を磨く天与の機会。』
度重なる逆境と思われる出来事に真摯に向かい合ってきて、自分自身が磨かれてきたのです。
今のこの状況下だから。
『自分の身を守るのは自分の免疫力だ』と伝えていきたい。そう強く思うようになりました。
ラニオラを起業するときに、身体のデトックスに特化した酵素風呂をやるのか?
それともヘルシーなメニューのカフェをやるのか?どの方法で『健康』を伝えていくのか悩みました。
あの時は酵素風呂をしようと決め、10年後を思い描いた『夢ノート』の通りに道は切り開けてきました。
そして今。
このタイミングで
『心と体の健康を意識してもらえるQOL café』を2021年5月にオープンすることを決意しました。
アレルギー物質として指定されている、小麦・乳・卵は使用せず、たっぷりの酵素が取れる発酵食と薬膳を使ったメニューです。
そのcaféスペースで心の健康を取り戻すためのセミナーやスクール
【Lokahi Mindロカヒマインド】を開講します。
そして地域の人の集いにもなるようにワークショップスペースも運営していきます。
『私たちの心と体を作っているのは質の良い食べ物から。』そういった基本的なことに立ち返られるお店。
Mam Aina(マムアイナ)=母の食卓を新しくオープン致します。
私の野望はまだまだ続く予定ですので、しばらくはリアルでもブログ上でもお付き合いいただけたら幸いです。
株式会社S.T.Unite 島 聡子














































