いやね、みなさま。
本日は待ちに待った快晴~♪でございましたわよ。
しか~し、お寒いったらありゃしない。
今日の最高気温が6度で、夜になった現在は3度だそうな。
でも、体感温度は、-1度 になっておりました。ブルブル…。
こ~んな寒い日だったけど、本日は夫が休みだったので、
共に ビーチウォークへと洒落込みました。
今日のイングリッシュベイも、とってもお美し~♡
寒くて 耳が痛くなったけれど、空気が澄んでいて気持いい。
途中、夫の会社の同僚に逢って、ちょいと立ち話していたら
ウギャゴ~ もう、凍りつきそうでした。![]()
冷え切った体を暖めようと、スタバへGO!
スタバから、キレイな夕陽が見えました。
しばし、スタバにいたら、目を疑うような光景が…
え… っていうか、そこの信号待ちしてるチミ!
そんなのありダスか?
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極寒のビーサン!!
みんな、すっごいウィンターブーツを お召しになっているというのに、
チミったら。
足が燃えてるのさ! 冬でもね、イエイ、イエイ♪
と歌ってしまいそうなくらい、軽快にビーチへと旅立たれた
このお方。
イカシマス。 ![]()
この潔い自由人を見ていたら、俺のスタイルは俺が決めるぜ!
みたいなメッセージが聞こえてきそうでした。
そう、この <自分で決める> ということこそ、去年から考えていた
今年の私のテーマなのです。
だから極寒にビーサンを履いた人に出会ったような気もします。
ただいま、転換期の真っただ中にいる私は、あれこれと
決断しなくてはいけないことが盛りだくさん。
こんな時だからか、授業の中でも、自分で決めることの
大切さを話したりして、やっぱり何でもシンクロしているな…と
感じております。
A と B の選択をするような決断は、結局、心を優先にして
頭でつじつまが合うかどうか、計算すれば済むことです。
でも、最近、本当に私が自分で決める必要があるな~と思うのは、
<自分という人 そのもの>
なのです。
たとえば、誰かに メールをした時、言葉も選んで、心もこめて、
正直に気持を伝えたとします。
相手を打ち負かしてやろうとか、嫌な気持ちにさせようとか
そういうエゴ的な気持ちなど 一切ないと言えるメールです。
そんなメールを送ったあとは、自分の愛とつながった感じがし、
気分爽快であったとします。
でも、その相手から、しばらく返事がないと、途端に不安が
モクモク湧き上がり、自分の思考、思想、表現方法など、
自分自身に対しての疑問で包み込まれてしまいます。
<自分のとった言動の判断を 相手の態度によって決めてしまう>
これって、わたくし、結構あるのです。
自分では最善を尽くしたと思うことでも、相手の反応が悪いと
途端に、
え?間違った?悪かった?私のせい?
と、自分を疑い出してしまいます。
つまり、相手の反応で、自分の良し悪しを決めているということですね。
(良いも悪いもないけれど、分かりやすくいえば…です。)
人のアドバイスや忠告を聞ける柔軟性は、持っていたいけれど、
自分という人を 相手に決めてもらっていては、いつまでたっても
充足感を得ることが出来ません。
私は これでいい。
私は 私でいい。
私は 十分だ。
私は 良くやった。
こういう判断は、全部、自分で決めて良いのです。
良いのです…というより、自分で決めるしかありません。
ほめられていい気分になるのも、けなされて落ち込むのも
自分という人の決定権を 他者に委ねきってしまっているから。
今年は、私という人を 自分で決める回数を増やそうと
真冬にビーサンで さっそうと歩くお方を眺めつつ思った、
夕暮れなのでした。
てなわけで、今日のところは おやすみなさい★
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