・韓国の歴史は物語であり、事実は優先されない ~日韓歴史共同研究より~
日韓共同研究: 神戸大 朝鮮半島地域研究 木村幹教授:読売新聞
私事で恐縮だが、一昨年からはじまった「第二期日韓歴史共同研究委員会」の研究委員なるものを引き受けてから、もう1年半以上になる。委員会には、古代史部会、中世史部会、近現代史部会、そして教科書小グループの四つの下部委員会があり、筆者はそのうちの教科書小グループの研究委員を務めている。
そもそも日韓間で最初に本格的な国家間プロジェクトとしての歴史共同研究が始まったのは、2002年のことであった。第一期の委員会には、筆者も研究協力者(委員の下で研究に従事するもの)として参加させていただいた。
こうして開始された「第一期日韓歴史共同研究委員会」は、2005年に報告書を提出して終了し、2007年からは第二期の委員会がはじまった。筆者も目出度く(?)研究協力者から委員へと昇格した。しかし、仕事は厄介であった。すぐにわかったのは、日韓の間では、歴史教育の目的が全く異なる、ということだった。
日本では一般的に、日本史や世界史に関わる「事実」を教えることに重点が置かれている。だから、各種の教科書から一定の「物語」を読み取ることは難しいし、また、教育現場でもその読み取りは重視されない。
しかし、韓国では歴史的事実よりも、歴史に関わる「物語」に重きが置かれている。そこでは、「民族」の価値が強調され、近代史でも、如何に韓国人が日本に抵抗したかが、重視される。
日韓の教科書の違いには、「歴史観」の違いが表れている。例えば、韓国人が歴史問題などにおいてよく使う言葉に「歪曲」がある。注意すべきは、この言葉が「歪曲された事実」という形だけでなく、「歪曲された歴史観」という形でも使われることだ。そこには、「絶対無二の歴史観」が存在し、それ以外の歴史は、事実の如何に拘らず「誤り」だ、という認識が存在する。
だとすれば、日韓の間で妥協が成立するためには、日本側の歴史観が韓国のそれに合致する形で是正されるか、韓国式の歴史観そのものが変わる他はない。
歴史問題については、よく独仏の例が参考にされる。しかし、両者でフランスが譲歩した部分も多かったことは余り知られていない。先行する事例を正確に観察してこそ正しい解決策が見出されるのではなかろうか。
先日、日中の歴史共同研究の記事 を書きましたが、おなじ事が韓国とも行われています。こちらも中国の時と同じく、第三国でも入れない限り中立的でお互い公平な妥協点など見つかるべくもないわけです。それははじめからわかっていましたが、こちらも日本の研究者は対中国のプロジェクトと同様、善戦しているようです。
私が懸念していたのは、無理に共同研究の成果を出そうとして、あちら側に偏った合意点を発表してしまったり、日本の研究者に”あちら側”の人間が混じることで、後の日本に多大なデメリットを産んでしまうことです。しかしながらこれらの記事を見ると、その懸念は杞憂であったと言えるかもしれません。
当Blogでは何度も書いていますが、韓国の歴史においては、事実は優先されません。彼らの民族性優位や優越感、または政治的・外向的優位という概念を満たすために歴史観が作られ、その歴史観は全ての事実に優先されます。つまり、彼らにとって事実や真実などどうでもよいことなのです。もし、それに反対し真実の歴史を追い求めようとする人物が現れると、それが政治家であれ、大学教授であれ、芸能人であれ社会的に抹殺されます。それが韓国社会なのです。そのような国と真実の歴史など共有できるわけがない。それを知っている日本人はたくさんいますが、それを公に発表すると、韓国が必ず”日本が歴史をまた歪曲・妄言”と騒ぎ立て、日本のマスコミがそれに乗じるためにそれを怖がって口に出すことを控える人は多い。
この教授はそのような韓国の実態をしっかりと念頭におきながら共同研究に参加し、しかもその韓国の実態をちゃんと新聞に発表しています。実に信用のおける研究者だと感じます。
先日、中国との共同研究の記事でも書きましたが、合意点は見いだせなくとも、この共同研究でわかった韓国の歴史観の実態を、日本の研究者はしっかりと日本国民に伝えて欲しい。それだけでも大きな成果と言えるでしょう。
参考書籍:
「中国・韓国の歴史教科書」に書かれた日本 (宝島社文庫)別冊宝島編集部
韓国人の日本偽史―日本人はビックリ! (小学館文庫)
野平 俊水