本日は、
本日は、乙丑🐮の日。
乙未🐑の月と、
乙丑🐮のダブル乙。
乙未🐑の蔵干にも乙があるので、
実はトリプル乙…。
今日は、
誰にも平等に木性と金性が強まる日。
(辛も×3つ)
宿命にない気は、借り物で苦手なのだが、
日干が壬の私は、
和合性のある相生。
いつもと感覚が違っていた。
前回記事で、自我の空化について述べさせていただいた。
コメントのやりとりで、
何故か、物理学者のシュレーディンガーのことが思い出された。
『精神と物質』の中で、彼は「時」について以下のように述べている。少し長いが読んでみてほしい。
「相対性理論は革命的なものですが、時間の非一方向性を予め仮定し、これには触れておりません。ー省略ーこれは、古代[ギリシア]のクロノス[=時]という専制君主から自由になることを意味しております」
「私たちが心のなかで自ら築きあげたものは、精神に対する独裁的な力、すなわちそれを前に押し出したり消し去ったりする力をもたないのだと私は思うのであります」
「物理的な理論は現在の状況の状況において、時間を越えた精神の不滅を強く示唆している」
この本は科学者であるシュレーディンガーが神秘主義とされて誤解も生まれた本だ。
アインシュタインの相対性理論には一般的な時ではないものが仮定がされているのにそれに触れていないと指摘している。
そして、時を敢えてクロノスとクラシックに言い換えている。このことがずっと気になっていていた。
すると、ギリシア語では、「時」を表す言葉が クロノスとカイロスの2つがある、とあった。前者は「客観的な時間」を、後者は「主観的な時」を指している。
カイロスとは、以前に紹介したこの羽の生えた後ろツルッ禿、前髪しかないおっさん青年のチャンスの神様だ。(また登場するとは思わなんだ…。)
「クロノス時間」は、過去から未来へと一定速度・一定方向で機械的に流れる連続した時間を表現し、「カイロス時間」は、一瞬や人間の主観的な機時を表す内面的な時間だ。
クロノスが計量可能な物理的時間を意味するとしたら、カイロスはクロノスの一様な流れを断つ瞬間時としての質的時間だ。
人に与えられているのがクロノス時間だ。
人に訪れるのがカイロス時だ。
シュレーディンガーは、精神において主観と客観は切り離せないと結論づけた。
大切なのは、
日干がとらえるカイロス時だ。
現代社会は、まるで仕組まれたように、あまりにもクロノス時間に縛られ過ぎていやしないか?
算命学は、
我々が囚われすぎているクロノス時間からの解放と、忘れさせられている(?)カイロス時を取り戻させることのできる東洋に残された素晴らしい叡智だ。
シュレーディンガーは物理学者でありながら、最終的には梵我一如のインド哲学に行き着いた。
ここにたどり着く西洋学者が多すぎるのも不思議なので、私なりに今度はショーペンハウアーとニーチェが何を読んでいたのかが知りたくて、この本に行き着いた。
まだ前書きしか読めていない…。
私に学術本を読むことができるかわからないが、既にここのところのブログテーマと連動、同調しているように感じる…。
自我の空化の後は、
「無」を考察せよのテーマらしい…。
これは次の超難題をもたらすカイロスの置き土産か?(苦笑)
と、またあの前髪しかない神が通りかかったら是非とも掴まえて聞いてみたいものだ。
今の中殺天胡星と天馳星でどこまでいけるのか?それを知るのも一興だ(苦笑)