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生き方の哲学ー7・・・浦蘭 嶋多朗 (「みおつくし」8月号より)

生き方の哲学ー7 浦蘭 嶋多朗「みおつくし」8月号より

人類の数があまりも増え過ぎたため弱肉強食の法則が乱れている。
そのため歪みが起こり、あらゆるところで不条理が発生し、弱肉強食の法則が保てなくなっている。
解決の糸口が全くつかめない戦争が続き、親殺し子殺しが普通に扱われ、社会に蔓延してしまう。
動物や植物の世界では宇宙の法則に沿って生物のバランスが保たれていた。
人間は弱肉強食という自然界の食物連鎖の法則を崩し、地球の自然環境という宇宙の法則までも破壊している。
人口が増えるということは生存競争が激しくなるのは当然で、争いごとも多くなり、発展すれば戦争にもなります。
生活する場所を広げたり、動物で言えばテリトリーを広げるようになり、血縁関係や同色人種、同胞の数が増えれば領土を広げたくなります。
獲物や食料、生活必需品や生活物資の豊富な地域を求めて獲得しようとします。
色々な面で他者との比較や欲望が発生し、人口が増えれば増えるほど連鎖連動して争いも増え、略奪や闘争も増えます。
そして安心のできる安定した生活は脅かされ、平和な地域社会や国家は長期に維持持続できなくなります。
やがて欲望だけで生きる「どぶねずみ的」発想の人類が大勢発生し、たくさん育ちます。
いつの間にか多いことが良いこと、大きいことが好いことなどと錯覚が根付きます。
「支配・被支配二層構造と世襲・相続の制度が差別・不条理・戦争の元凶である」と、新田氏も言われています。
実は少数派民族や少数派の地域で欲の争い事に悩み煩わされず、平和に安定した生活を営んでいる人々の方が、高層ビルやパソコン、携帯電話が無くても人間らしい充実した毎日を過ごしているのかも知れません。

他者と比べるから欲が出る、他人と比較するから競争心が起きる、他者他人を見るから闘争心が芽生える。
なぜ知性があるはずの人間が毎日闘争したり競争したり、生命まで奪い合わなくてはいけないのでしょう。
と言うより、なまじ知性があるが故に闘争や略奪、殺人を繰り返すのかも知れません。
たまたま人間だけに知性がある為に死を恐れ、四苦八苦に悩まされて生きなくてはならないのでしょう。
しかし、知性が人それぞれにあっても、気づきを常に意識して生きている人と、気づきを意識しないで生きている人では人生の価値観に大きな差がでてきます。
人間がいつかは死ぬという事は誰もがわかりきったことですが、闇雲に死を恐れ、遠ざけ、忘れようとして生きる人と、生と死は表裏一体で、生きている以上は常に死は隣り合わせで生活をしているという事を理解して生きている人では、日常生活の過ごし方、捉え方に違いが現れてきます。
付け加えるならば、他の生き物社会がすべてメス社会なのに、人間社会だけが男性社会ということも原因になっているのでしょう。

死を常に意識して生きている人は、今、ここを生きることができますが、死を意識しないで生きている人は過去と未来にとらわれ、今、ここを生きることができません。
今、ここをよく生きていれば無闇に死を恐れたり、死ぬことが悪いことと考える理由も必要もありません。
病気も死も生きている以上、常に表裏一体で人生には付きものですから、受け入れて仲良く生きれば苦痛も恐怖も和らぐでしょう。
いくら大金を積んでも死は先のばししてくれませんし、いくら偉い人でも病気から逃れることはできません。
大金持ちでも貧乏でも、偉い人でも凡夫でも、病気と死は常に平等に与えられています。

地球上のすべての生物と、人間も一体と考え、人間様だけが地球上で特別待遇ではないと自分に言い聞かせることも時には必要かも知れません。
そもそも、死ぬだの生きるだのと、人間が勝手に考え出した動詞で、他の生物や動物社会では名詞も動詞も無いし、死ぬも生きるも区別は無いわけです。
自然の法則、宇宙の法則、食物連鎖の法則で生きたり死んだりしているわけです。
もちろん死が悪いとか生きるが好いなども人間が勝手に決めた錯覚の価値観です。
ならば、もしかしたら動物社会から捉えれば死が好くて生きるが悪いかも知れないわけです。
発想が少し飛躍しましたが、生物動物社会から見れば人間社会が勝手に考えたり決めたりしている事は、とんでもない、考えも及ばない錯覚かも知れないのです。
他の生物や動物社会から言わせれば「物事の善し悪しを勝手に人間だけで決めないでくれ」と言いたがっているのかも知れません。
人間社会の常識は他の動物社会や自然界には通用しないし、適応しないでしょう。
知性を持った人間社会が勝手に作り上げた科学による地球自然支配は、人間の自己中心的進化現象であっても地球規模で捉えれば退化現象なのです。
二本足の知性を持った人類は地球を支配し、進化し続けているが、反面、地球と自然を破壊し続けている。
進化した人間の知性は功的側面がある反面、罪的側面も表裏一体として同居しているのです。
すべては表裏一体ですから、常に表も裏も意識して見たり考えたりしていなくては本質を見失います。
死ぬことも生きることも表裏一体ですから、死を理解しないと生きる本質は理解できません。
貧困な生活と裕福な生活と両方を知らないと、本当の貧困も裕福も理解できません。
本当の貧困は裕福を知らないと理解できないし、本当の裕福は貧困を知らないと解りません。
生まれつき貧困で貧困のまま人生を終われば、本当の貧困も解らないし、本当の裕福も解りません。
生まれつき裕福で裕福のまま人生を終われば、本当の裕福も本当の貧困も味わえないでしょう。
お釈迦さんは生まれ育った宮廷から外へ出て、凡夫の世界や四苦八苦を知り、死を知り、真理に目覚めました。
たとえ、お釈迦さんでも宮廷内で死ぬまで過ごせば、真理にも目覚めず、裕福が当たり前で貧乏な生活の存在も知らずに、本当の貧富の差もわからずに一生を送ったのでしょう。
先進国の生活を知らないアフリカの奥地の原住民は自分達が貧乏などとは思ったことも無いでしょうし、裕福な生活をうらやましいと考えもしないでしょう。

世界情勢は平成セミナーで新田氏が既に予測している流れになり、どう考えても将来的には米ソも及ばない中国の経済発展の勢い。
そして中国と繋がりの深い北朝鮮にアメリカは遠慮し、アメリカにとっては既に用なしで、危機感と緊張感が全く無く、あてにならない日本は国際社会からも蚊帳の外へ爪弾きにされつつあります。
国民不在の政党のための政治、自民党だの民主党だの、朝青龍の今後の成り行きだの、視聴率優先でテレビやメディアが大騒ぎして浮かれている場合ではないのでしょう。
テレビ、ラジオ、メディアの視聴率とは何なんでしょう?61億の多数派「どぶねずみ的」人間を対象にした営利目的の数値です。
インターネットも変革しつつあり、一般大衆化しつつありますが、閉鎖的で地域社会的なテレビ、ラジオと違い、インターネットの大きな利点はグローバルで規制も少なく、世界共通であるということです。
世界にアピールしたい事を同時に瞬時に発信するためには、共通語とされている英語で発信する必要があります。
そして欧米社会より地球温暖化や自然破壊を軽視していた後手後手日本も、やっと二歩も三歩も遅ればせながら一般社会に危機感が浸透しつつあります。
将来は組織の時代から個人の時代へ移行し、そして他の生き物社会を見習って男性社会から女性社会になっていけば、地球上の人類は65億から61億が淘汰され、適正数の4億に近付くのでしょうか。

The earth **つつまれて**/利奈

無限の宇宙

46億年前に地球が生まれ

壮大な歴史が始まった



同じ時代に同じ場所で

あなたとわたし

出会えた奇跡

神に感謝(父母に感謝


残りの人生も

地球に抱かれ

優しい時間に

流されていきたい
利奈 
大好きなあなたの

大切さを感じる

   Rina

生き方の哲学ー6・・・浦蘭 嶋多朗 (「みおつくし」7月号より)

生き方の哲学ー6 浦蘭 嶋多朗「みおつくし」7月号より

情報に満ち溢れた現代社会で人々の繋がりを支えている伝達手段は言葉ですが、その言葉も使い方を間違えると伝わり方に大きな差が出てきます。
同じ内容のことでも言葉の使い方が変わると誤解されたり、違った意味に捉えられたり、食い違いも生じます。
人と人のコミュニケーションも言葉のやりとりで信頼関係が成り立ち、愛情が生まれたり、良好な関係を保つこともできますが、反面、憎しみや嫌悪感も起こり、喧嘩や争いに発展する場合もあります。
最近は言葉遣いそのものが流行的な勢いに流されて、大分乱れた言葉がテレビやマスコミまでもが平然と使われているようです。
社会問題として取り上げられている「いじめ」に関しても、暴力的な言葉や威圧的な言葉による影響が多かれ少なかれあるのでしょう。
私のところへ相談に来る人で、職場での「いじめ」が原因の心の病を訴える方が増えています。
学校での「いじめ」の延長が、すでに会社や職場でも「いじめ」が当たり前のように蔓延しているようです。
これらはほとんど言葉によるもので、肉体的苦痛の暴力ではありません。
それほど言葉とは人の心理に大きな影響を与えるもので、不用意に自分の感情をあるがままに相手にぶつけることは、時に恐ろしい結果を招く場合もあります。
殺伐とした社会生活で起こる様々な暴力的な事件も、原因は言葉のやりとりや、売り言葉に買い言葉が発端で傷害事件、殺人事件にまで発展する場合もあるようです。
言葉というものは用い方次第で安らぎにもなり憎しみにもなります。
大袈裟に言えば相手から受けた言葉によって幸せな気持ちやいい気分にもなり、不幸な気持ちや嫌な気分にもなってしまう。
言葉の解釈も同じように、解釈の仕方、捉え方次第で善くも悪くもなってしまいます。

ひとことで「いじめ」と言っても色々な種類や要因要素があるでしょう。
自分自身の不平不満やストレスを他人にぶつける行為や、自分に無い何かいいものを相手が持っているときに発生する自分のコンプレックスを、不満、ストレスとして無意識に当たり散らす場合など、またはいじめのリーダーシップをとる人に同調しないと自分が村八分にされると思い込み、一緒になって自分の気持ちに蓋をして行動を共にしてしまう場合もあるでしょう。
いじめる側もいじめられる側も愉快、不愉快にかかわらず、自分の感情が自分の中で無意識に増幅されて異常に大きく膨らんで、団体意識の中で必要以上に感じてしまう場合もあります。
自分にとって好きなタイプの友達や好意的に思う同僚が自分にもたらす喜びは相手が与えてくれる喜びではなく、自分の中にある前向きな喜びの感情が相手と融合して増幅される喜びの感情です。
自分にとって嫌いなタイプの相手も同様で、不愉快な気分を嫌いな相手が自分に持って来るものではなく、自分の後ろ向きな不愉快な感情を無意識に引き出しているのでしょう。
もちろん「いじめ」に関しては様々な要因で起こるものなので、自分の意識の持ち方だけで解決できるものでもありませんが、捉え方によって影響を少なくしたり緩和することは可能です。

自分は相手に何を伝達したいのか、また相手は自分に何を言いたいのか、知性、知識、感性、知恵などを伝えたくても、言い方次第で受け入れられたり拒否されたり、反感をもたれ反発されたり、同調されたり、言葉の言い回し次第で変化します。
基本的には聞き手の立場、相手の気持ちになって話しを進めていけば、自分の意思を思うように伝えることが出来るでしょう。
不特定多数の聴衆を相手にする演説や講演での話し方と、個人を相手に話す場合とは話し方も使い分けする必要があります。
友達同士の会話、先輩後輩の使い分け、上司への言い方と部下への言い方も変わってきます。
特に日本の場合は男女で言葉が違ったり、上下関係やその時の立場によって変化したり、使い分けなくてはならないので日本語は特にやっかいでしょう。
しかし、その日本語は「てにをは」を用い、言霊が表現できる希少な言語で、歴史的にも、文学的にも受け継がれている世界に恥じない言語です。
その大切な日本語の持つ美しさと魅力、表現力はもはや消滅しようとしています。
感情や表情が伝わりにくいメールや文章でのやりとりと、会話でのやりとりでも伝わり方が微妙に変化します。
直接対面した話しと電話の話しでも伝わり方が多少変化します。
細かく言えば標準語とされている東京ことばと、かつて標準語とされていた関西弁を比較しても伝わり方が変わってきます。
宗教的な教本や海外の書籍なども、何度か外国語翻訳を経て日本語翻訳されれば微妙なニュアンスが違ったり、作者が伝えたい内容が多少違ってくるかも知れません。

実体験の伴わない知識や言葉は相手や聞き手にとって空論、机上の論理としか伝わわらないし、何千冊もの書物の内容をいくら大声で張り上げて訴えてもそれは説得力を伴いません。
それはその人の知識や言葉が生きていないからでしょう。
反面、実体験を含む言葉はその人の心の中から湧き出て、身体を通してにじみ出てくる生きた言葉になるため説得力もあり、相手にも受け入れられ浸透します。
ここら辺の違いが、単なる知識の羅列的な言葉と、自分自身の知恵としての言葉の違いとなってくるのでしょう。
つまり、いくら偉そうな言葉を並べても、その人が実際にどれだけの行動実践が伴っているかで評価は大きく変わってきます。
芸術一般や絵画などでも、ピカソの絵画を知識として真似をして抽象的な表現をして描いても評価されません。
創作者自身の哲学や生き様などが魂の入ったアートとして表現されていれば、観衆聴衆の感動を誘います。
それらの絵画や音楽の絵筆や音が創作者の人生の一部、または人生そのものが生きたものとして現れているからでしょう。

知識を吸収し、高めることは外部や他者から得られるものですから、それに没頭し過ぎると自分を見失います。
そして収集した知識を実体験して初めて自分自身の知恵として消化できるわけですから、コレクター的に本棚にたくさんの書物を並べて乱読し、いくら多くの知識を収集してもこれは他者の意見や考えを知っているだけであって、自分自身を知ることにはなりません。
知識の収集だけに固執執着していると、いつまでたっても自己発見、自己実現できません。
不必要な食物を採り過ぎると肥満体質になります。
基本的な栄養素となる知識を吸収したら、後は自分の体質にあった知識だけを選別して消化吸収し、体内に浸透させ、不要な知識は排泄しなくてはなりません。
不要な食物をいつまでも体内にとどめてしまうと便秘になり、体質に合わない食品を摂取して体内にとどめておくと、吹き出物ができたり癌になる場合もあるかも知れません。
不要な知識をいつまでも自分の中にとどめておくと本当の自分自身を見つめる障害になるだけで、自己発見の妨げになります。
腐敗した食品を摂取すると消化不良をおこし、下痢をしたり嘔吐します。
不要な知識をすべて排泄して初めて本当の自分自身を主観として客観として見られるようになるのでしょう。
ソクラテスが言ったように「己の愚かさを知る」ことがまず初歩的段階の第一歩なのかも知れません。
極端に言えば、動物はあらゆる障害や困難、弱肉強食のサバイバルを体験しながら、何の予備知識が無くても体験経験を通して生きのびる本能を活かし、応用して生存し続けています。

現代社会の世相は何かおかしい、どっか狂ってると日頃感じているのは平成セミナー参加の諸氏だけではないはずです。
何か問題を引き起こしても無責任に逃れようとしている人々、自分の否を認めず他人事みたいに平然と逃れようとしている人々。
善を表看板にかかげ、裏看板では金銭欲にすがりついている偽善者が悪をきれいごとで覆い隠し、平然と居座れる社会構造を私利私欲の為だけに利用して生きている人々。
肉親を殺める人や犯罪をゲーム感覚でおこす人、良識とか人間性や心などが一切感じられない人々など、ニュースで取り上げられるのはほんの一握りの事件です。
ニュースにならない事件や身近なところで起きている不条理を想像すると末恐ろしくなると感じている人はたくさんいるはずです、と思いたい。

生き方の哲学ー5・・・浦蘭 嶋多朗 (「みおつくし」7月号より)

生き方の哲学ー5  浦蘭 嶋多朗 「みおつくし」7月号より

貧乏な生活はお金が無くなれば底を打ち、それ以下にはなりようがありません。
お金持ちの生活は上には上があり、限りなくお金が欲しくなります。
幸せは自分自身の心の中で強くなったり弱くなったり、大きくなったり小さくなったりします。
貧乏な生活をしていても、その中で小さな幸せ、中くらいの幸せ、大きな幸せを見つけだし、自分の幸せは自分でいくらでも変えられます。
幸せは自分の中にあるのに、自分の外を見ようとするから幸せに気がつかずに、自分は不幸だと思いながら一生過ごしてしまいます。
自分が幸せか不幸せか、これは自分が決める自分への評価です。自分自身は自分が作れるものだという事を知ることが生きていく上で最も大切です。
人生における様々なやりとりは全て映像です。それらの映像を自分がどう捉えるかによって良くもなり、悪くもなるでしょう。
自分自身を決めるのは自分です。社会でもないし環境でもありません。あるがままの現実を受け入れ、その中で自分に見合う幸せを見つけだせばいいだけです。
すべては自分の思考から作り出される映像であり、世界です。
たとえ何もかもすべてを失い、希望も夢も目的、目標を見失ったとしても、その時は第二の人生、第三の人生を新たに作れる絶好のリフレッシュチャンスです。
常にいつも自分の中にすべての答があります。周囲の人に求めても何も返ってきません。
自分以外の何かに依存すれば、それらのものに支配されるでしょう。

裕福な生活に溺れていると、欲望の虫がもっともっとお金が欲しいと大騒ぎます。しかし、お金で幸せは買えません。何億円のお金を積んでも買えません。
ある女性が、もっとお金持ちがいい、もっとお金持ちがいいと何度も結婚離婚を繰り返していました。やがて過去を振り返ってみると最初に結婚した相手との生活が、裕福ではなかったけれど一番心も満たされ、いい思い出もたくさんあり、愛情にも恵まれて充実していたことがわかりましたが、後の祭りだったとか。
過去や未来への執着からすべて解放された時に本当の心の平安を感じられます。至福の時と言ってもいいかも知れません。
金銭欲や物欲も満たされ、精神欲も愛情にも満たされ、すべての物事に満たされたパーフェクトな生活を得ようとしても無理なことです。
必ず何かを得れば犠牲はつきものです。いいとこ取りだけして傷つくことを避けたり、リスクを全く負わずに生活することは無理です。
両手がふさがっていれば、もう一つ荷物は持てません。どちらかを手放して持つ以外ありません。
荷物でいっぱいの部屋にもっと荷物を置きたかったら、どれかを処分してスペースを作らなくてはなりません。

人間は勝手な生き物ですから、安定した生活がマンネリ化してくると刺激を求めます。
波乱に満ちた生活を続けると、やがて安定を求めます。
失敗を経験して成功するように、成功すれば今度は失敗の不安がつきまといます。
安全が約束された生活はありません。危険と不安が必ずつきまといます。
コインは裏表で一体というように、いいとこ取りだけ求めることはできません。
理想に近付くためには冒険がつきものです。自由を得るには危険がつきものです。
暗闇を恐れ、幸せの明かりが見えないからと言って恐がり、進む勇気を持たなければ、いつまでも幸せにたどり着きません。
頭の中であれこれ悩んだり考えたりしても、何の答えも解決策も見つかりません。今の自分を生きて、今の自分が行動することによって答も解決も後からついくるのでしょう。
自由な生活を望むなら、危険が伴う大胆な冒険の道を進まなくてはならない事もあります。
自由が無くても安心だけを求めるならば、それは服役生活や入院生活と変わらないでしょう。

他人の生活を羨ましがる人がいます。
「お隣の奥さんいいわね~」「となりのご主人いいわね~」
「会社の社長はいいよな~」「芸能人はいいよな~」
「宝くじに当たった人っていいわね~」「パチンコやスロットルで稼いでる人っていいな~」
「ヒルトンの娘はブランド品腐るほど持てていいわね~」「吉本興業のタレントはバカ話しして大儲けできるからいいな~」
これらの事を独り言でつぶやいている場合は自分が落ち込むだけなのでいいでしょう。
回りに誰かいたり、話しを聞いている人がいる場合は、自分は不幸だ、自分は幸せではないとアピールしているようなものです。
私は自己実現できていない人間です。と言っているようなものです。
あの人のようになりたい、誰々のような生活がしたい、自分以外の誰かになりたいという欲望願望の現れでしょう。
今自分がおかれている状態や状況に不満を感じ、外的変化を求める。
今自分がおかれている状態や状況を受け入れて、その中にある自分に見合った生き甲斐や目標目的、幸せを見出せば内的変化を求めることになり、完全に充実するのです。
自分の器以上の高すぎる理想を求めては挫折するでしょう。どう考えても手が届かない目標を目指しては途中で足を踏み外します。
周囲の人に期待し過ぎると裏切られます。相手に完璧を求め過ぎると人間関係に歪みが生じるでしょう。

今の自分で今を生きることを知れば苦しみや悩みから解放されるでしょう。今の自分以外の誰かで生きようとすれば苦しみや悩みがつきまといます。
自分以外の誰かで生きようとする、ということは自分の外を見たり、過去と未来へのこだわりから生ずる欲望に振り回されるからです。
今の自分をもっともっと信じて純粋の信念を持って生きれば大方の物事における問題は解決します。
しかし、この単純な純粋の信念がなかなか持てるようで持てず、エリート社会で生きようとすると忘れがちになります。知性とプライドが邪魔をするからです。
肝心な自分自身を気にせず、自分を知るということを気にかけないで、他人が自分につけるラベルばかりを気にするから本当の自分を見失い、見えなくなるのでしょう。
そして、他人から見た自分ばかりに気をとられ、自分で自分を見ることをしなくなります。
他人と自分を比較ばかりして明け暮れ、自分が他人より劣っている部分があると自己嫌悪に陥ったり、劣等感を持ち、自信喪失になったり、度を超すと人生の敗北者くらいに考えてしまいます。
このような考え方で生きていると他人の不幸を期待したり、他人の喜びを素直に受け入れられなくなります。
他人の幸せに対して表向きは笑顔で振る舞っていても、心の中では不幸を願ったりしてしまいます。

今の自分で今を生きることを実感できる速攻手段は自然の中で動物達により近い生活をすることでしょうが、都会で生活していればそうもいきません。
次に考えられる手段としては自然界を身近に感じられる環境で自給自足を目標にする生活です。しかし、これもまた都会で生活していればイメージくらいしか体験できません。
または托鉢修行に出かけて山や川を巡りながら生活することもいいのですが、家族があれば長期に続けることは困難です。
結局のところ都会で生活していれば実際に体験することは難しいのですが、そのことを知ることはできます。
電気の無い夜の暗闇を実在として、または病気や貧困を実在として、または自然界の動物達の視点から見た、この世的価値観で生きている人間の生活の中で起きている多くの錯覚の発見など、あらゆるボタンのかけ違いが見えてくるでしょう。
固定した価値観で錯覚したまま判断していると世界が見えなくなります。錯覚を信じ込んだ先入観で物事を捉えると大切なものを見落とします。

しかし、現実の社会ではどうでしょう。芸能人やテレビタレントがうかれて大騒ぎしたり、演出された大笑いやバカ騒ぎしているテレビ番組を毎日見ながらいつの間にか年をとっているのです。
もちろん笑顔で過ごしたり生活に笑いを取り入れることは大切ですが、うかれ過ぎて大事なことを忘れてしまうのはどうでしょう。

生き方の哲学ー4・・・浦蘭 嶋多朗 (「みおつくし」7月号より)

生き方の哲学ー4  浦蘭 嶋多朗 (「みおつくし7月号より」)

怒りっぽい人や穏やかな人、自己制御できる人や自分をコントロールできない人。
気が短い人や気が長い人、まじめな人や不まじめな人。
行動的な人や腰が重い人、暖かい心の持ち主やクールなものの考えの人。
何かにつけて暴力的な人や非暴力的な人、衝動的に犯罪に奔る人やワンクッションおいて物事を考える人。
色々な人がいます、何故偏った人が生まれるのでしょうか。
同じ様な生活をしていても、なんで極端に違った人が育つのでしょう。
それぞれの生きて来た環境も違えば、植え付けられた考え方も違うし、頭の構造も違うので、それぞれ違って当たり前といえば当たり前ですが、少しでも世の中が平穏に過ごせる環境になり、居心地の良い社会になればと、多くの人は思うでしょう。
もちろん、そう簡単に世の中は変わらないでしょうし、人それぞれの考え方が変われば世の中が即、変わるものでもないでしょう。
でも、一人でも二人でも考え方が変わることで、世の中が住みやすく居心地の良い社会になっていけばいいと、誰もが考えていると思います。

頭が良いとか悪いというのは、なかなか一概には言えませんし、決めつけられません。
一流大学を卒業して一流企業に入れたとしても、その人が必ず人格も良く、頭も良く、優秀とは限らないからです。
何か物事を知っていると言っても、これはその人がその事を理解しているとか把握しているとは限りません。
誰かに「~を知っていますか?」と尋ねられて、その相手が「知っている」と答えても、これは単に「名前を知っている」かも知れませんし、「聞いた事がある」かも知れません、または「学校で習った」というだけかも知れません。
知っているといっても、その人が本当にそのことを知っているのか、十分理解しているのか、把握しているのか、または身を以て体験し、実践し、活用して理解し、把握した上で知っているのかは本人しかわかりません。
医者や弁護士、学校の教師や教授、政治家や会社のトップなど、肩書きで評価し、判断して、多くの人はそれだけで人格も含めた評価として信用します。
多くの知識を身につけていないとなれない職業の人なら、確かに物知りで、クイズ番組などでは賞金を多く獲得するかも知れません。
しかし人格や人間性、性格、主義主張、ポリシーなど、すべてを信用できるとは限りません。
そういう人たちは他人を説得する話術話法なども身につけているので、立派な人と錯覚させられることも多いでしょう。

その場その場のにわか知識や学校教育の詰め込み知識、受験の為の知識などが必要な場合もありますが、人それぞれの個性に合う選別した知識を完全に身に付けることも必要です。
本当の意味でそれぞれの人が人生で智慧として知性として発揮し、活用、応用できる知識を取り入れることが重要です。
自分自身に不足している考え方を身に付ける、自分自身に不足している必要な知識や考え方は何なのかを常にいつも自覚し、模索し続けることが大切です。
ひとりひとりが、それぞれの知性を、いつも、いつまでも向上させ続けることが重要です。
そうすることで社会全体の、そして地球規模の人間性向上につながり、平穏な人間社会に一歩近付くかも知れません。

どこどこ大学の教授が犯罪に奔ったり、どこどこ高校の教師が犯罪を犯したことなどが、新聞記事の事件欄などでよく目にします。
また立派な医師や弁護士、政治家や会社社長なども法律を破る行為で逮捕される事件がニュースで取り上げられます。
「あんなに真面目な人がどうして?」とか「おとなしい人なのに何で?」「学校の成績はいつもトップだったのに何故?」とか、ニュース番組などで犯人を知る人のインタビューをよく耳にします。
自動車のハンドルのように人間にもアソビが必要とよく言われます。
子供の頃から塾に通わされ、嫌いな勉強も試験の成績を上げるために、レベルの高い学校や一流企業へ進むために、なかには親の見栄で子供を強制的に勉強させる場合も多いよいうです。
余暇の時間といえばテレビゲームやパソコンを与え、毎日の生活のほとんどをデジタルの世界で過ごさせます。
あたかも将来未来はすべてデジタルが当たり前の時代が来るように錯覚させられ、いつの間にかデジタル漬けの人間が出来上がります。
アナログは過去の遺物のように扱われ、アナログ人間は軽視されたり軽蔑されるような時代になってしまうかも知れません。
学校の勉強も大切です、しかし遊びも大切です。
デジタルも大事です、しかしアナログも人間には必要です。

ロボット化した人間が益々増えるでしょう。殺人をゲームの一部のように錯覚したり、バーチャルゲームと現実との区別がつかなくなり、凶悪犯罪を平然と犯す錯覚人間やロボット人間がどんどん育つのです。
コンピューターと対当に張り合える人間を優秀と考えるのは間違いかも知れません。
会社や組織に都合よく利用され、挙げ句の果てにデジタルの進歩に追い付けなくなり、使い捨てにされるのがオチです。
そのような世界で生き残るには、デジタルの急速な進歩にいつでも対応できる知識をスピーディーに勉強し続けなくてはならないでしょう。

また急激な時代の変化に対応しきれずに精神状態が不安定になったり、イライラしたりむしゃくしゃして犯罪にはけ口を向けたりする場合も多いようです。
対象は誰でもよかったとか、放火や通り魔的な被害、不特定な相手への犯罪行為も増えています。
このように考えるとストレスの恐ろしさが理解できると思います。
原因不明の体調不良、鬱病、精神不安、自律神経失調、胃潰瘍、果ては癌に発展することも考えられます。
心に余裕とアソビがあれば避けられることも多いはずですし、デジタル的な考え方でなくアナログ的な思考で生活していれば避けられるケースもあるかも知れません。
毎日の生活の大半を仕事や会社、職場で過ごしたり、プライベートな時間をも仕事関連に費やしたり、現実的に理想とは相反する生活を余儀なくされ、過ごしている人があまりにもたくさんいます。
経済的な豊かさを求めて、いつの間にか気づかずに慢性疲労や慢性不眠症、ストレス性の精神不安、胃炎、心の病に悩まされている人も想像以上にたくさんいます。
将来的には病名や治療法も不明な不思議な現代病も発生するかも知れません。

「勝ち組」だの「負け組」だとか、やれセレブな生活などとメディアやマスコミが作り上げた、拝金主義的な指向を増長させるような流行的な言葉に振り回されて、錯覚させられ、生活を自ら破壊している人も多いのでしょう。
これは何でもいいから他人よりいいモノを一つでも持ち、ささやかな優越感で自己満足を得たいという欲求不満解消に過ぎません。
一般庶民がこのような状態では明治維新以前の「ええやないか~ええやないか~よいよいよいよい~」の江戸時代と大差は無いでしょう。
うかれた社会に流されて、日々生活することから脱皮して、昼も夜も夢を見ている状態から目を覚まし、覚醒した生活をするように心掛けましょう。

知識は豊富でも、学校の勉強をいくら身に付けても、それらを応用して十分発揮し、身を以て体験し、実践し、活用できなければ理解しているとは言えません。
また、いくら専門分野に精通していても、人格が伴わなければ偏った物事の捉え方になります。
知識を取り入れて吸収して身体全部に浸透させて、それらの知識を実践し、行動し、応用して知識は生きた知識となります。
いくらたくさんの知識を取り入れても、有効に活かさなければ立派な知識もお蔵入りし、いつか忘れ去られ、消滅するか遠い記憶に残るだけです。
たとえ少ない知識でも十分活用し、実践行動に役立てれば、自分自身の可能性や限界を知るレベルまで持っていけるでしょう。

そして死ぬという事を意識できるようになり、「死」を克服まではいかなくても、無闇に死を恐れなくても良いことに気がつくはずです。
「生」は「死」の不在概念だということがわかれば新田哲学の多くの部分を理解できるはずです。
その事を踏まえて生きていけば、本当の意味の豊かな生活が見えてきます、そして世の中から犯罪も減り、戦争も減っていくのでしょう。
もう、いい加減に目を覚ましましょう。
マスコミやメディアに振り回されるのは止め、テレビなどの情報を鵜呑みにするのを止めましょう。
それぞれが、ひとりひとりが宇宙規模でとらえた地球と自然、社会が必要としている人格と知性を身に付け、人間社会だけの為の利益ではなく、地球と共存していく知性と智慧を身に付け、もうそろそろ目を覚まさなくてはなりません。
メディアに洗脳された自分ではなく、目に見えない巨大な権威に信じ込まされた自分ではなく、そして社会の勢いに流されている自分ではなく、本当の自分、本来の自分を取り戻さなくてはならないということです。
過去の偉人が残した名言に触れると何かに目覚めることがあります。
お年寄りの方が言う人生の生き方の知恵を聞くと大きなヒントに気付くことがあります、また、先住民族に受け継がれている言い伝えや教えを知ると、自然本来の人間や生き物の本能を取り戻せる事があります。
動物も植物も人間も生きる本能を持った地球上の生き物です。
コンピューターではありません、機械ではありません。